徒然草 第二百二十五段

現代語訳

 舞踏家の多久資が言っていた。「藤原信西入道が、数ある舞の中から好きな物を選んで、磯の禅師という芸妓に教えて舞わせた。白装束に匕首、黒烏帽子という出で立ちだったので、男舞と呼んだ。その芸妓の娘が静御前である。母の舞を伝承したのだ。これが白拍子の始まりである。当時は、太古の神話を歌っていたが、のちに、源光行が多くの台本を手がけた。後鳥羽院の手なる作品もあり、愛人の亀菊という芸妓に舞わせた」と。

原文

 多久資(おほのひさすけが申しけるは、通憲入道(みちのりのにふだう、舞の手の中に興ある事どもを選びて、(いそ禅師(ぜんじといひける女に教へて舞はせけり。白き水干(すいかんに、鞘巻(さうまきを差させ、烏帽子(えぼしを引き入れたりければ、男舞(をとこまひとぞ言ひける。禅師が娘、(しづかと言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子(しらびやうし根元(こんげんなり。仏神の本縁を歌ふ。その後、源光行(みなもとのみつゆき、多くの事を作れり。後鳥羽院(ごとばのゐん御作(ごさくもあり、亀菊(かめぎくに教へさせ給ひけるとぞ。

注釈

 多久資(おほのひさすけ

  周防守。多家(おおのけは、神楽と舞を家業にして宮廷に仕えた師。

 通憲入道(みちのりのにふだう

  藤原通憲(みちのり。鳥羽・崇徳・近衛・後白河の四代天皇に仕え、少納言になる。出家して、信西と称した。博学多才として知られる。

 (いそ禅師(ぜんじ

  後に登場する「静」の母。静に伴い京都から鎌倉に下向。「禅師」は芸妓の源氏名。

 (しづか

  源義経の妾で、静御前と呼ばれる。

 白拍子(しらびやうし

  遊女が男装して舞う歌舞。

 源光行(みなもとのみつゆき

  鎌倉初期の歌人で学者でもあった。源頼朝のセキュリティ・ポリス。関東地方で活躍し『蒙求和歌』『百詠和歌』などの著書を残す。『源氏物語』の河内本を校閲した。

 後鳥羽院(ごとばのゐん

  第八十二代の天皇。承久の乱に失敗し、隠岐の島に流される。

 亀菊(かめぎく

  後鳥羽院が寵愛した舞姫。この寵愛が承久の乱の原因の一つとなったと伝えられる。隠岐の島に連れ添う。

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