疲れたとき

徒然草 第百四十八段

現代語訳

 四十過ぎて性懲りもなく身体に灸を据えた後、足の裏を焼かないと、逆上せることがある。必ず足の裏の決まった場所を焼くことだ。

原文

 四十以後の人、身に(きうを加へて、三里を焼かざれば、上気(じやうきの事あり。必ず灸すべし。

注釈

 三里

  灸を据える時の決まった身体の場所。灸穴。

徒然草 第七段

現代語訳

 あだし野の墓地の露が消える瞬間がないように命は儚く、鳥部山(とりべやまの火葬場の煙が絶えないように命は蒸発していく。もし灰になった死体の煙のように命が永遠に漂っていたとすれば、もうそれは人間ではない。人生は幻のようで、未来は予想不能だから意味があるのだ。

 この世に生きる生物を観察すると、人間みたくだらだらと生きているものも珍しい。かげろうは日が暮れるのを待って死に、夏を生きる蝉は春や秋を知らずに死んでしまう。そう考えると、暇をもてあまし一日中放心状態でいられることさえ、とてものんきなことに思えてくる。「人生に刺激がない」と思ったり「死にたくない」と思っていたら、千年生きても人生など夢遊病と変わらないだろう。永遠に存在することのできない世の中で、ただ口を開けて何かを待っていても、ろくな事など何もない。長く生きた分だけ恥をかく回数が多くなる。長生きをしたとしても、四十歳手前で死ぬのが見た目にもよい。

 その年齢を過ぎてしまえば、無様な姿をさらしている自分を「恥ずかしい」とも思わず、人の集まる病院の待合室のような場所で「どうやって出しゃばろうか」と思い悩みむことに興味を持ちはじめる。没落する夕日の如く、すぐに死ぬ境遇だが、子供や孫を可愛がり「子供たちの晴れ姿を見届けるまで生きていたい」と思ったりして、現実世界に執着する。そんな、みみっちい精神が膨らむだけだ。そうなってしまったら「死ぬことの楽しさ」が理解できない、ただの肉の塊でしかない。

原文

 あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山(とりべやま(けぶり立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋(はるあきを知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせを暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ(すぐすとも、一夜(ひとよの夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ(はぢ多し。長くとも、四十(よそじに足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

 そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出ヰで交らはん事を思ひ、夕べの(に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

注釈

 あだし野

  京都北西郊外の墓地。今でも念仏寺があり、墓場の代表的な名称として使われる。

 鳥部山(とりべやま

  京都東山にある火葬場。あだし野の露は消えやすく、鳥部山の煙はすぐ溶けてしまうように、人の生は儚いことをたとえている。