病気または苦痛のとき

徒然草 第二百四十一段

現代語訳

 月が円を描くのは一瞬である。この欠けること光の如し。気にしない人は、一晩でこれ程までに変化する月の姿に気がつかないだろう。病気もまた満月と同じである。今の病状が続くのではない、死の瞬間が近づいてくるのだ。しかし、まだ病気の進行が遅く死にそうもない頃は、「こんな日がいつまでも続けばいい」と思いながら暮らしている。そして、元気なうちに多くのことを成し遂げて、落ち着いてから死に向かい合おうと考えていたりする。そうしているうちに、病気が悪化し臨終の間際で、何も成し遂げていないことに気がつく。死ぬのだから、何を言っても仕方ない。今までの堕落を後悔して、「もし一命を取り留めることができたら、昼夜を惜しまず、あれもこれも成し遂げよう」と反省するのだが、結局は危篤になり、取り乱しながら死ぬのである。世に生きる人は、大抵がこんなものだ。人はいつでも死を心に思わなければならない。

 やるべきことを成し遂げてから、静かな気持ちで死に向かい合おうと思えば、いつまでも願望が尽きない。一度しかない使い捨ての人生で、いったい何を成し遂げるのか。願望はすべて妄想である。「何かを成し遂げたい」と思ったら、妄想に取り憑かれているだけだと思い直して、全てを中止しなさい。人生を捨てて死に向かい合えば、煩わしさや、ノルマもなくなり、心身に平穏が訪れる。

原文

 望月(もちづき(まどかなる事は、(しばらくも(じゆうせず、やがて欠けぬ。心止めぬ人は、一夜(ひとよ(うちにさまで変る様の見えぬにやあらん。(やまひ(おもるも、住する(ひまなくして、死期(しご既に近し。されども、未だ病(きふならず、死に赴かざる程は、常住(じようじゆう平生(へいぜいの念に習ひて、(しやうの中に多くの事を(じやうじて後、閑かに道を(しゆせんと思ふ程に、病を受けて死門に(のぞむ時、所願一事(しよぐわんいちじ(じようせず。言ふかひなくて、年月(としつき懈怠(けだい(いて、この(たび、若し立ち直りて命を(またくせば、((に継ぎて、この事、かの事、(おこたらず(じやうじてんと願ひを(おこすらめど、やがて(おもりぬれば、我にもあらず取り乱して(てぬ。この類のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。

 所願を(じやうじて後、(いとまありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻(によげん(しやう(うちに、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想(まうざうなり。所願心に来たらば、妄信迷乱(まうじんめいらんすと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下(はうげして道に向ふ時、障りなく、所作(しよさなくて、心身(しんじん永く閑かなり。

徒然草 第二百三段

現代語訳

 朝廷から法によって裁かれる罪人の門に、矢を入れる靫を取り付ける習わしも、今ではなくなり、知る人もいない。天皇が病気の際や、世間に疫病が蔓延した際にも、五条天神に靫をかける。鞍馬寺の境内にある靫の明神も、靫をかける神である。判決の執行係が背負う靫を罪人の家にかけると、立ち入り禁止になる。この風習がなくなり、今では門に封をするようになった。

原文

 勅勘(ちよくかんの所に(ゆき(くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上(しゆしやう御悩(ごなう大方(おほかた、世中の騒がしき時は、五条の天神(てんじん(ゆきを懸けらる。鞍馬(くらま(ゆき明神(みやうじんといふも、(ゆき(けられたりける神なり。看督長(かどのをさの負ひたる(ゆきをその家に懸けられぬれば、人((らず。この事絶えて後、今の世には、(ふうを著くることになりにけり。

注釈

 勅勘(ちよくかん

  伊勢の皇大神宮のこと朝廷より咎められること。天皇のご機嫌を損ない法律で罰せられること。朝廷に出入り禁止になること。

 (ゆき

  矢を入れて背負う道具。

 五条の天神(てんじん

  京都市下京区天神前町にある疫病を治める神。大己貴命(おおあなむちのみこと少彦名神(すくなひこなのかみを祭る。

 鞍馬(くらま

  京都市左京区鞍馬本町にある鞍馬寺。

 (ゆき明神(みやうじん

  鞍馬寺の境内にある鞍馬町の氏神で、五条の天神と同様に大己貴命(おおあなむちのみこと少彦名神(すくなひこなのかみを祭る。

 看督長(かどのをさ

  検非違使庁の下級官僚で、在任の逮捕や牢獄の監視、強制執行の任務に当たった。

徒然草 第百七十五段

現代語訳

 世間には、理解に苦しむことが多い。何かある度に、「まずは一杯」と、無理に酒を飲ませて喜ぶ風習は、どういう事か理解できない。飲まされる側は、嫌そうにしかめ面をし、人目を見計らって盃の中身を捨てて逃げる予定だ。それを捕まえて引き止め、むやみに飲ませると、育ちの良い人でも、たちまち乱暴者に変身して暴れ出す。健康な人でも、目の前で瀕死の重体になり、前後不覚に倒れる。これが祝いの席だったら大惨事だ。翌日は二日酔いで、食欲が無くなり、うめき声を上げながら寝込む。生きた心地もせず、記憶は断片的に無い。大切な予定も全てキャンセルし、生活にも支障をきたす。こんなに非道い目に遭わせるのは、思いやりが無く、無礼でもある。辛い目に遭わされた本人も、恨みと妬みでいっぱいだろう。もし、これが余所の国の風習で、人づてに聞いたとしたら、異文化の不気味さに驚くに違いない。

 他人事だとしても、酔っぱらいは見ていて嫌になる。用心深く、真面目そうな人でも、酔えば、馬鹿のように笑い出し、大声で喋り散らす。カツラを乱し、ネクタイを弛め、靴下を脱いでスネ毛を風にそよがせる。普段の本人からは想像できない醜態だ。女が酔えば、前髪をバサリとかき上げ、恥じらいもなく大口で笑い、男の盃を持つ手にまとわりつく。もっと非道くなると、男に食べ物をくわえさせ、自分もそれを食うのだから、汚らわしい。そして、声が潰れるまで歌い、踊るうちに、ヨボヨボな坊主が呼び出され、黒くて汚らしい肩をはだけて、ヨロヨロと身体をよじって踊る。この見るに堪えない余興を喜ぶ人達が、鬱陶しく憎たらしい。それから、自分がいかに人格者であるか、端から聞きけば失笑も辞さない話を演説し、仕舞いには泣き出す始末である。家来達は罵倒し合い、小競り合いを始め出す。恐ろしさに呆然となる。酔えば恥を晒し、迷惑をかける。挙げ句の果てには、いけないものを取ろうとして窓から落ちたり、車やプラットフォームから転げ落ちて大怪我をする。乗り物に乗らない人は、大通りを千鳥足で歩き、塀や門の下に吐瀉物を撒き散らす。年を取った坊さんがヨレヨレの袈裟を身にまとい、子供に意味不明な話をしてよろめく姿は、悲惨でもある。こんな涙ぐましい行為が死後の世界に役立つのであれば仕方ない。しかし、この世の酒は、事故を招き、財産を奪い、身体を貪るのである。「酒は百薬の長」と言うが、多くの病気は酒が原因だ。また、「酔うと嫌なことを忘れる」と言うが、ただ単に悪酔いしているだけにも見られる。酒は脳味噌を溶かし、気化したアルコールは業火となる。邪悪な心が広がって、法を犯し、死後には地獄に堕ちる。「酒を手にして人に飲ませれば、ミミズやムカデに五百度生まれ変わる」と、仏は説いている。

 以上、酒を飲むとろくな事がないのだが、やっぱり酒を捨てるのは、もったいない。月見酒、雪見酒、花見酒。思う存分語り合って盃をやりとりするのは、至高の喜びだ。何もすることがない日に、友が現れ一席を設けるのも楽しみの一つだ。馴れ馴れしくできない人が簾の向こうから、果物と一緒にお酒を優雅に振る舞ってくれたとしたら感激物だ。冬の狭い場所で、火を囲み差し向かいで熱燗をやるのも一興だ。旅先で「何かつまむ物があったら」と言いながら飲むのも、さっぱりしている。無礼講で、「もっと飲みなさい。お酒が減っていませんね」と言ってくれるのは、ありがたい。気になる人が酒好きで飲み明かせるのは、楽しい。

 ともあれ、酒飲みに罪はない。ヘベレケに酔っぱらって野営した朝、家主が引き戸を開けると、寝ぼけ眼で飛び起きる。髪を乱したまま、着衣を正す間もなく逃げる。裾をまくった後ろ姿や、細い足のスネ毛など、見ていて楽しく、いかにも酔っぱらいだ。

原文

 世には、心(ぬ事の多きなり。ともある毎には、まづ、酒を(すすめて、(ひ飲ませたるを(きようとする事、如何なる故とも心得ず。飲む人の、顔いと(へ難げに(まゆ(ひそめ、人目を測りて捨てんとし、(にげげんとするを、(とらへて引き(とどめて、すゞろに飲ませつれば、うるはしき人も、忽ちに狂人(きやうじんとなりてをこがましく、息災(そくさいなる人も、目の前に大事の病者(びやうじやとなりて、前後も(らず(たふれ伏す。(いはふべき日などは、あさましかりぬべし。(くる日まで頭痛(かしらいたく、物(はず、によひ(し、(しやう(へだてたるやうにして、昨日(きのふの事(おぼえず、(おほやけ(わたくしの大事を欠きて、(わづらひとなる。人をしてかゝる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にも(そむけり。かく(からき目に(ひたらん人、ねたく、口惜(くちをしと思はざらんや。人の国にかゝる習ひあンなりと、これらになき人事(ひとごとにて伝へ聞きたらんは、あやしく、不思議に覚えぬべし。

 人の上にて見たるだに、心(し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひのゝしり、(ことば多く、烏帽子(えぼし歪み、(ひも(はずし、(はぎ高く掲げて、用意なき気色(けしき、日来の人とも覚えず。女は、額髪(ひたひがみ(れらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちさゝげてうち笑ひ、(さかづき持てる手に取り付き、よからぬ人は、(さかな取りて、口にさし当て、自らも食ひたる、(さまあし。声の限り(して、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し(されて、黒く穢き身を肩抜ぎて、目も当てられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましく、憎し。(あるはまた、我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひ聞かせ、或は(ひ泣きし、(しもざまの人は、罵下(り合ひ、(いさかひて、あさましく、恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、果は、許さぬ物ども押し取りて、(えんより落ち、馬・車より落ちて、過しつ。物にも乗らぬ際は、大路(おほちをよろぼひ行きて、築泥・門の下などに向きて、えも言はぬ事どもし散らし、年老い、袈裟(けさ掛けたる法師(ほふしの、小童(こわらは(かた(おさへて、聞えぬ事ども言ひつゝよろめきたる、いとかはゆし。かゝる事をしても、この世も(のちの世も(やくあるべきわざならば、いかゞはせん、この世には過ち多く、(たからを失ひ、病をまうく。百薬の(ちようとはいへど、(よろづの病は酒よりこそ起れ。(うれへ忘るといへど、(ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ(でて泣くめる。後の世は、人の智恵を失ひ、善根(ぜんこんを焼くこと火の如くして、悪を増し、万の(かいを破りて、地獄に堕つべし。「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生(ごひやくしやうが間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。

 かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の(あした、花の本にても、心長閑(のどかに物語して、(さかづき(だしたる、万の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの(ほかに友の(り来て、とり(おこなひたるも、心慰む。馴れ馴れしからぬあたりの御簾(みす(うちより、御果物(くだもの御酒(みきなど、よきやうなる気はひしてさし(だされたる、いとよし。冬、(せばき所にて、火にて物(りなどして、(へだてなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。旅の仮屋(かりや、野山などにて、「御肴(みさかな何がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるも、をかし。いたう痛む人の、(ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「今ひとつ。(うへ少し」などのたまはせたるも、うれし。近づかまほしき人の、上戸(じやうごにて、ひしひしと(れぬる、またうれし。

 さは言へど、上戸(じやうごは、をかしく、罪許さるゝ者なり。(ひくたびれて朝寝(あさいしたる所を、(あるじの引き(けたるに、(まどひて、惚れたる顔ながら、細き(もとどり差し(だし、物も着あへず(いだ(ち、ひきしろひて(ぐる、掻取(かいとり姿の後ろ手、毛(ひたる細脛(ほそはぎのほど、をかしく、つきづきし。

徒然草 第百七十二段

現代語訳

 若者は血の気が多く、心がモヤモヤしていて、何にでも発情する。危険な遊びを好み、いつ壊れてもおかしくないのは、転がっていく卵のようだ。綺麗な姉ちゃんに狂って、貯金を使い果たしたかと思えば、それも捨て、托鉢の真似事などをしだす。有り余った体力の捌け口に喧嘩ばかりして、プライドだけは高く、羨んだり、好んだり、気まぐれで、浮気ばかりしている。そして、性愛に溺れ、人情に脆い。好き勝手に人生を歩み、犬死にした英雄の伝説に憧れて、自分もギリギリの人生を送りたいと思うのだが、結局は、世の末まで恥ずべき汚点を残す。このように進路を誤るのは、若気の至りである。

 一方、老人は、やる気がなく、気持ちも淡泊で細かいことを気にせず、いちいち動揺しない。心が平坦だから、意味の無い事もしない。健康に気を遣い、病院が大好きで、面倒な事に関わらないように注意している。年寄りの知恵が若造に秀でているのは、若造の見てくれが老人よりマシなのと同じである。

原文

 若き時は、血気(けつき(うちに余り、心、物に動きて、情欲多し。身を(あやぶめて、(くだ(やすき事、(たまを走らしむるに似たり。美麗(びれいを好みて宝を(つひやし、これを捨てて(こけ(たもと(やつれ、勇める心盛りにして、物と争ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず、色に耽り、情にめで、行ひを潔くして、百年(ももとせの身を誤り、命を失へる例願はしくして、身の(またく、久しからん事をば思はず、(ける(かたに心ひきて、永き世語りともなる。身を(あやまつ事は、若き時のしわざなり。

 老いぬる人は、精神(せいしん(おとろへ、(あは(おろそかにして、感じ動く所なし。心(おのづから静かなれば、無益(むやくのわざを為さず、身を助けて(うれへなく、人の(わづらひなからん事を思ふ。老いて、智の、若きにまされる事、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如し。

徒然草 第百五十五段

現代語訳

 一番の処世術はタイミングを掴むことである。順序を誤れば、反対され、誤解を与え、失敗に終わる。そのタイミングを知っておくべきだ。ただし、病気や出産、死になると、タイミングなど無く、都合が悪くても逃れられない。人は、この世に産み落とされ、死ぬまで変化して生き移ろう。人生の一大事は、運命の大河が氾濫し、流れて止まないのと同じなのだ。少しも留まることなく未来へと真っ直ぐ流れる。だから、俗世間の事でも成し遂げると決めたなら、順序を待っている場合ではない。つまらない心配に、決断を中止してはならない。

 春が終わって夏になり、夏が終わって秋になるのではない。春は早くから夏の空気を作り出し、夏には秋の空気が混ざっている。秋にはだんだん寒くなり、冬の十月には小春の天気があって、草が青み、梅の花も蕾む。枯葉が落ちてから芽が息吹くのでもない。地面から芽生える力に押し出され、耐えられず枝が落ちるのである。新しい命が地中で膨らむから、いっせいに枝葉が落ちるのだ。人が年老い、病気になり、死んでいく移ろいは、この自然のスピードよりも速い。季節の移ろいには順序がある。しかし、死の瞬間は順序を待ってくれない。死は未来から向かって来るだけでなく、過去からも追いかけてくるのだ。人は誰でも自分が死ぬ事を知っている。その割には、それほど切迫していないようだ。しかし、忘れた頃にやってくるのが死の瞬間。遙か遠くまで続く浅瀬が、潮で満ちてしまい、消えて磯になるのと似ている。

原文

 世に(したがはん人は、先づ、機嫌(きげんを知るべし。(ついで(しき事は、人の耳にも(さかひ、心にも違ひて、その事(らず。さやうの折節(をりふしを心(べきなり。(ただし、(やまひを受け、子(み、死ぬる事のみ、機嫌(きげんをはからず、(ついで(しとて(む事なし。(しやう(ぢゆう((めつの移り変る、(まことの大事は、(たけき河の(みなぎり流るゝが如し。(しばしも(とどこほらず、(ただちに(おこなひゆくものなり。されば、真俗(しんぞくにつけて、必ず(はた(げんと思はん事は、機嫌(きげんを言ふべからず。とかくのもよひなく、足を((とどむまじきなり。

 春暮れて(のち、夏になり、夏(てて、秋の(るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春(こはるの天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて(ぐむにはあらず、(したより(きざしつはるに(へずして落つるなり。(むかふる気、下に(まうけたる(ゆゑに、待ちとる(ついで(はなはだ速し。(しよう・老・病・死の移り(きたる事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期(しご(ついでを待たず。死は、前よりしも(きたらず。かねて(うしろ(せまれり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、(おぼえずして(きたる。(おき干潟(ひかた(はるかなれども、(いそより(しほ(つるが如し。

徒然草 第百三十四段

現代語訳

 高倉上皇の法華堂で念仏まみれだった坊さんに、何とかの律師という人がいた。ある日、鏡を手にして自分の顔を注意深く見つめていると、我ながら気味悪くグロテスクなのにショックを受けた。そして、鏡までもが邪悪な物に思えて恐ろしく二度と手にしなかった。人と会わず、修行の時にお堂に顔を出すだけで引き籠もっていたと聞いたが、天晴れである。

 頭が良さそうな人でも、他人の詮索ばかりに忙しく、自分の事は何も知らないようだ。自分の事さえ知らないのに、他人の事など分かるわけもない。だから、自分の分際を知る人こそ、世の中の仕組みを理解している人と呼ぶべきだ。普通は、自分が不細工なのも知らず、心が腐っているのも知らず、腕前が中途半端なのも知らず、福引きのハズレ玉と同じ存在だということも知らず、年老いていくことも知らず、いつか病気になることも知らず、死が目の前に迫っていることも知らず、修行が足りないことにも気がついていない。自分の欠点も知らないのだから、人から馬鹿にされても気がつかないだろう。しかし、顔や体は鏡に映る。年齢は数えれば分かる。だから、自分を全く知らないわけでもない。だが、手の施しようが無いのだから、知らないのと同じなのだ。「整形手術をしろ」とか「若作りしろ」と言っているのではない。「自分はもう駄目だ」と悟ったら、なぜ、世を捨てないのか。老いぼれたら、なぜ、老人ホームで放心しないのか。「気合いの入っていない人生だった」と後悔したら、なぜ、それを深く追及しないのか。

 全てにおいて人気者でもないのに人混みにまみれるのは、恥ずかしいことである。多くの人は無様な姿をさらして節操もなく表舞台に立ったり、薄っぺらな教養を持ってして学者の真似をしたり、中途半端な腕前で熟練の職人の仲間入りをしたり、鰯雲のような白髪頭をして若者に混ざり肩を並べたりしている。それだけで足りないのか、あり得ないことを期待し、出来ないことを妄想し、叶わない夢を待ちわびて、人の目を気にして恐れ、媚びへつらうのは、他人から受ける恥ではない。意味もなく欲張る気持ちに流されて、自ら進んでかく恥なのだ。欲望が止まらないのは、命が終わってしまうという大事件が、もうそこまでやって来ていることを身に染みて感じていない証拠である。

原文

 高倉院(たかくらのゐん法華堂(ほつけだう三昧僧(さんまいそう、なにがしの律師(りつしとかやいふもの、或時、鏡を取りて、顔をつくづくと見て、我がかたちの見にくゝ、あさましき事余りに心うく(おぼえて、鏡さへうとましき心地しければ、その後、長く、鏡を恐れて、手にだに取らず、更に、人に(まじはる事なし。御堂(みだうのつとめばかりにあひて、(こもり居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。

 (かしこげなる人も、人の(うえをのみはかりて、(おのれれをば(らざるなり。我を知らずして、(ほかを知るといふ(ことわりあるべからず。されば、己れを知るを、(もの知れる人といふべし。かたち(みにくけれども知らず、心の(おろかなるをも知らず、芸の(つたなきをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の(おかすをも知らず、死の近き事をも知らず、(おこなふ道の(いたらざるをも知らず。身の上の非を(らねば、まして、(ほか(そしりを知らず。(ただし、かたちは鏡に見ゆ、年は(かぞへて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ、知らぬに似たりとぞ言はまし。かたちを(あらため、(よはひを若くせよとにはあらず。(つたなきを知らば、何ぞ、やがて退(しりぞかざる。老いぬと知らば、何ぞ、(しづかに居て、身を安くせざる。(おこなひおろかなりと知らば、何ぞ、(これ(おもふこと茲にあらざる。

 すべて、人に愛楽(あいげうせられずして(しう(まじはるは恥なり。かたち見にくゝ、心おくれにして((つかへ、無智にして大才(たいさいに交はり、不堪(ふかんの芸を持ちて堪能(かんのうの座に(つらなり、雲の(かしら(いたきて(さかりなる人に並び、(いはんや、及ばざる事を望み、(かなはぬ事を(うれへ、(きたらざることを待ち、人に恐れ、人に(ぶるは、人の与ふる恥にあらず、(むさぼる心に引かれて、自ら身を恥かしむるなり。貪る事の(まざるは、命を(ふる大事、今こゝに(きたれりと、(たしかに知らざればなり。

注釈

 高倉院(たかくらのゐん

  高倉上皇のこと。

 法華堂(ほつけだう三昧僧(さんまいそう

  御陵内で法華経三昧の生活をしている僧侶。

 律師(りつし

  僧官の中で、僧正、僧都、に継ぐ官位。

徒然草 第百三十一段

現代語訳

 貧乏人は、金を貢ぐのを愛情表現だと思い、老いぼれは、肉体労働の役務が社会貢献だと思っている。そう思うのは身の程知らずでしかない。自分の限界を知って、出来ないことはやらないことだ。それが許されないのなら、許さない人の頭が狂っている。身の程知らずにもリミッターを解除したら、自分の頭が狂っている証拠だ。

 貧乏人が見栄を張れば泥棒になるしかなく、老人が土木作業をやり続ければ病気で死ぬのが世の常である。

原文

 
 貧しき者は、(たからをもッて礼とし、老いたる者は、(ちからをもッて礼とす。己が(ぶんを知りて、及ばざる時は(すみかに(むを、智といふべし。(ゆるさざらんは、人の(あやまりなり。分を知らずして(ひて(はげむは、己れが誤りなり。
 貧しくして(ぶんを知らざれば(ぬすみ、力(おとろへて分を知らざれば病を受く。

徒然草 第百二十九段

現代語訳

 孔子の一番弟子、顔回は他人に面倒をかけないことをモットーとした。どんな場面でも、人に嫌な思いをさせ、非道い仕打ちを与えてはならず、貧乏人から希望を奪う事は許されない。しかし、子供に嘘をつき、いたぶり、からかって気晴らしをする人がいる。相手が大人なら冗談で済むが、子供心にはトラウマになり、怖さと恥ずかしさで壊れそうになってしまう。いたい気な子供をいたぶって喜ぶのは、真っ当な大人のすることではない。喜怒哀楽はドーナツの穴のように実態がないが、大人になっても心に迷いがあるではないか。

 身体を傷つけるよりも、心を傷つける方がダメージが大きい。多くの病気は、心が駄目になると発症する。外から感染する病気は少ない。ドーピングで発汗しないことがあっても、恥に赤面したり、恐怖にちびりそうになると必ず汗がダラダラと流れ出す。だから、心の作用だとわかるはずだ。楼閣の高所で文字を書いた書道家が、骨の髄まで灰になった例も、なきにしもあらずだ。

原文

 顔回(がんかいは、志、人に労を施さじとなり。すべて、人を(くるしめ、物を(しへたぐる事、(いやしき民の志をも(うばふべからず。また、いときなき子を(すかし、(おどし、言ひ恥かしめて、興ずる事あり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、(をさなき心には、身に沁みて、(おそろしく、(づかしく、あさましき思ひ、まことに(せつなるべし。これを(なやまして興ずる事、慈悲(じひの心にあらず。おとなしき人の、喜び、怒り、哀しび、楽しぶも、皆虚妄(こまうなれども、誰か実有(じつう(そう(ちやくせざる。

 身をやぶるよりも、心を(いたましむるは、人を(そこなふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。(ほかより(きたる病は少し。薬を飲みて汗を求むるには、(しるしなきことあれども、一旦(いつたん恥ぢ、恐るゝことあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲(りよううんの額を書きて白頭(はくとうの人と成りし例、なきにあらず。

注釈

 顔回(がんかい

  孔子の一番弟子。目医者ではない。孔門十哲の一人。

徒然草 第百十二段

現代語訳

 明日、遠い場所へ旅立とうとしている人に、腰を据えなければ出来ないことを、誰が言いつけるだろうか。突然の緊急事態の対処に追われている人や、不幸に嘆き悲しむしかない人は、自分のことで精一杯で、他人の不幸事や祝い事を見舞うこともないだろう。見舞わないからと言って「薄情な奴だ」と恨む人もいない。得てして、老人や寝たきりの人、ましてや世捨てのアナーキストは、これと同じである。

 世間の儀式は、どんなことでも不義理にはできない。世間体もあるからと、知らないふりをするわけにも訳にいかず、「これだけはやっておこう」と言っているうちに、やることが増えるだけで、体にも負担がかかり、心に余裕が無くなり、一生を雑務や義理立てに使い果たし無意味な人生の幕を閉じることになる。既に日暮れでも道のりは遠い。人生は思い通りに行かず、既に破綻していたりする。もう、いざという時が過ぎてしまったら、全てを捨てる良い機会だ。仁義を守ることなく、礼儀を考える必要もない。世捨てのやけっぱちの神髄を知らない人から「狂っている」と言われようとも「変態」と呼ばれようとも「血が通っていない」となじられようとも、言いたいように言わせておけばよい。万が一、褒められることがあっても、もはや聞く耳さえなくなっている。

原文

 明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心(しづかになすべからんわざをば、人言ひかけてんや。(にはかの大事をも(いとなみ、(せちに歎く事もある人は、他の事を聞き入れず、人の(うれへ・喜びをも問はず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば、年もやうやう闌け、病にもまつはれ、(いはんや世をも(のがれたらん人、また、これに同じかるべし。

 人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の(もだし難きに(したがひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の(いとまもなく、一生は、雑事(ざふじの小節にさへられて、(むなしく暮れなん。日暮れ、(みち遠し。吾が(しやう既に蹉蛇(さだたり。諸縁を放下(はうげすべき時なり。信をも(まぼらじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。(そしるとも(くるしまじ。(むとも聞き入れじ。

注釈

 蹉蛇(さだ

  二字とも「つまづく」という意味で、思い通りに物事が進まないこと。

徒然草 第五十段

現代語訳

 応長というのは、一三一一年の事。三月の頃、伊勢の方から、女が鬼に化けて上京したというニュースがあった。それから二十日ぐらい経つと、日に日に、京都や白川の人が「鬼を見に行く」と言って、野次馬に変身した。「昨日の鬼は、西園寺に出没した」とか「今日の鬼は皇帝のお宅に伺うだろう」とか「今は、あそこに」などと噂だけが一人歩きした。「確かに鬼を見た」と言う人もなく「出任せだ」と言う人もない。高い身分の人も、そうでは無い人も、皆が鬼の話ばかりでキリがない。

 その頃、東山から安居院の近くへ出かけたところ、四条通りから上の方の住民が皆、北を目指して走っていた。「一条室町に鬼がいる」とわめき散らしている。今出川のあたりから見渡してみると、皇帝が祭を見物する板張り席のあたりには、人が通る隙間もなく、賑わい、ごった返していた。「ここまでの騒ぎになるなら、全く根拠のない話でもないだろう」と、人を使わして見に行かせると、一人も鬼と会った人がいない。日暮れまで大騒ぎし、しまいには殴り合いまで勃発して、阿呆らしくもあった。

 この頃、至る所で病気が蔓延し、患者は二三日寝込んだ。「あの鬼の空言は、この伝染病の前触れだった」と言う人もいた。

原文

 応長(おうちやう(ころ伊勢国(いせのくにより、女の鬼に成りたるをゐて(のぼりたりといふ事ありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京・白川(しらかはの人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺(さいをんじに参りたりし」、「今日は院へ参るべし」、「たゞ今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごとと云う人もなし。上下(じやうげ、ただ鬼の事のみ言ひ止まず。

 その比、東山(ひんがしやまより安居院(あぐゐ(へん(まか(はべりしに、四条(しでうよりかみさまの人、皆、北をさして走る。「一条室町(むろまちに鬼あり」とのゝしり合へり。今出川(いまでがはの辺より見やれば、院の御桟敷(おんさじきのあたり、更に通り(べうもあらず、立ちこみたり。はやく、跡なき事にはあらざンめりとて、人を(りて見するに、おほかた、(へる者なし。暮るゝまでかく立ち(さわぎて、(はて闘諍(とうじやうおこりて、あさましきことどもありけり。

 その比、おしなべて、二三日(ふつかみか、人のわづらふ事(はべりしをぞ、かの、鬼の虚言(そらごとは、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし。

注釈

 応長(おうちやう

  延慶(えんきょう四年(一三一一年)三月以降と思われる。この話の結末にある疫病のため、同年四月に応長と改元された。

 白川(しらかは

  京都の東の賀茂川と東山の間の地帯。

 西園寺(さいをんじ

  京の西北の今の金閣寺のある地に藤原公経(きんつねが建設した仏堂。

 東山(ひんがしやま

  京都盆地にある東側の山脈。

 安居院(あぐゐ

  比叡山東塔竹林院の僧侶が上京した際に寄宿する別館。

 四条(しでう

  四条通一帯。

 一条室町(むろまち

  東西の一条通と南北の室町通りの交差点。今の京都御所の最端の地点。

 今出川(いまでがは

  一条通と東洞院の交差する地点から南に流れていた川。

 闘諍(とうじやう

  喧嘩やもめ事。