祈りたいとき

徒然草 第二百四十二段

現代語訳

 人が性懲りもなく苦楽の間を逡巡するのは、ひとえに苦しいことから逃れて楽をしたいからである。楽とは何かを求め執着することだ。執着への欲求はきりがない。その欲求は第一に名誉である。名誉には二種類ある。一つは社会的名誉で、もう一つは学問や芸術の誉れである。二つ目は性欲で、三つ目に食欲がある。他にも欲求はあるが、この三つに比べればたかが知れている。こうした欲求は自然の摂理と逆さまで、多くは大失態を招く。欲求など追求しないに限る。

原文

 とこしなへに違順(ゐじゆんに使はるゝ事は、ひとへに苦楽(くらくのためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲(げうよくする所、一つには名なり。名に二種あり。行跡(かうせきと才芸との(ほまれなり。二つには色欲(しきよく、三つには(あぢはひなり。(よろづの願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒(てんだう(さうより起りて、若干(そこばく(わづらひあり。求めざらんにには(かじ。

徒然草 第百九十二段

現代語訳

 神様や仏様のへ参拝は、誰もお参りしないような日の夜がよい。

原文

 神・仏にも、人の(まうでぬ日、夜(まゐりたる、よし。

徒然草 第百二十四段

現代語訳

 是法法師は浄土宗の僧侶の中でも一目置かれる存在でありながら、学者ぶったりせず、一心不乱に念仏を唱えていて、心が平和だった。理想的な姿である。

原文

 是法(ぜほふ法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠(がくしやうを立てず、たゞ、明暮(あけくれ念仏して、安らかに世を過す有様、いとあらまほし。

注釈

 是法(ぜほふ法師

  『徒然草』が執筆された時代の僧で歌人。

 浄土宗

  法然上人(第三十九段参照)を宗祖とする宗教。

徒然草 第七十五段

現代語訳

 暇で放心している事に耐えられない人は、何を考えているのだろうか? 誰にも邪魔されないで、一人で変な事をしているのが一番いいのだ。

 浮き世に洗脳されると心は下界の汚れでベタベタになり、すぐ迷う。他人と関われば、会話は機嫌を伺うようになり、自分の意志も折れ曲がる。人と戯れ合えば、物の奪い合いを始め、恨み、糠喜びするだけだ。すると、常に情緒不安定になり、被害妄想が膨らみ、損得勘定だけしか出来なくなる。正に迷っている上に酔っぱらっているようなものである。泥酔して堕落し路上で夢を見ているようでもある。忙しそうに走り回るわりには、ボケッとして、大切なことは忘れてしまう。人間とは皆この程度の存在である。

 「仏になりたい」と思わなくても、逐電して静かな場所に籠もり、世の中に関わらず放心していれば、仮寝の宿とは言っても、希望はある。「生き様に悩んだり、人からどう見られているか気にしたり、手に職を付ける為に己を研鑽したり、教典を読み込んで論じる事など、面倒だから全て辞めてしまえ」と中国に伝わる『摩訶止観』に書いてある。

原文

 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるゝ(かたなく、たゞひとりあるのみこそよけれ。

 世に(したがへば、心、(ほか(ちり(うばはれて(まどひ易く、人に(まじれば、言葉、よその聞きに(したがひて、さながら、心にあらず。人に(たはぶれ、物に(あらそひ、一度(ひとだびは恨み、一度は喜ぶ。その事、(さだまれる事なし。分別(ふんべつみだりに起りて、得失止む時なし。(まどひの上に(へり。(ひの(うちに夢をなす。走りて(いそがはしく、ほれて(わすれたる事、人皆かくの如し。

 未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を(しづかにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活(しやうくわつ人事(にんじ・伎能・学問等の諸縁を(めよ」とこそ。摩訶止観(まかしくわんにも(はべれ。

注釈

 得失

  利害や損得のこと。

 摩訶止観(まかしくわん

  中国天台宗の仏論書。天台宗の開祖、智顗が修道の要点を説明したものを、弟子の章安灌頂が書き起こして十巻に編集した。

徒然草 第六十八段

現代語訳

九州に、何とかと言う兵隊の元締めがいた。彼は、「大根を万病の薬である」と信じて疑わず、毎朝二本ずつ焼いて食べることを長年の習慣にしてきた。

ある日、警備の留守を見計らうように敵が館を襲撃し、彼を包囲してしまった。すると、どうしたことか、見知らぬ兵士が二人あらわれて、捨て身の体勢で戦い、敵を撃退してくれた。とても不思議に思って「お見かけしないお顔ですが、このように戦って頂きまして、一体どちらさんですか?」と尋ねると「あなたがいつも信じて疑わず毎朝、食べていた大根でございます」とだけ答えて去っていった。

どんなことでも深く信じてさえいれば、こんなラッキーなことがあるのかも知れない。

原文

 筑紫(つくしに、なにがしの押領使(あふりやうしなどいふやうなる(もののありけるが、土大根(つちおほね(よろづにいみじき薬とて、朝ごとに(ふたつづゝ(やききて食ひける事、年(ひさしくなりぬ。

(ある時、(たち(うちに人もなかりける(ひまをはかりて、(かたき襲ひ来りて、(かこ(めけるに、(たち(うち(つはもの二人(で来て、命を(しまず戦ひて、皆((かへしてンげり。いと不思議(ふしぎに覚えて、「日比こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく(たたかひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来(としごろ(たのみて、朝な朝な(めししつる土大根(つちおほねらに(さうらう」と言ひて、(せにけり。

(ふかく信を(いたしぬれば、かゝる徳もありけるにこそ。

注釈

 筑紫(つくし

 ここでは九州全体を指す。

 押領使(あふりやうし

 地方での暴動を鎮圧するために、兵隊を率いる役職。

 土大根(つちおほね

 大根のこと。

徒然草 第五十八段

現代語訳

 「仏の道の修行をしようという心構えがあるのならば、住む場所は関係ないと思う。家族の住む家に住み、他人とつき合っていても、死んだ後の世界のことを願う気持ちに支障があるでしょうか?」と言うのは、極楽往生を理解していない人の意見である。本当に現世をチンケな世界だと思い、絶対に生死を超越してやろうと思うのなら、何が面白くて、朝から晩まで社会の歯車になって、家族計画に気合いを入れるのだろうか。心は周りの雰囲気に移ろうものだから、余計な雑音がない場所でないと修行などできっこない。

 仏道修行への気合いは、到底昔の人に及ばないから、山林に籠もっても、餓えを凌いで嵐を防ぐ何かがなければ生きていくこともできないわけで、一見、俗世にまみれていると、見方によっては見えないこともない。けれども「それでは、世を捨てた意味もない。そんなことなら、どうして世を捨てたのだろうか?」などと言うのは、メチャクチャな話だ。やはり、一度は俗世間を捨てて、仏の道に足を踏み入れ、厭世生活をしているのだから、たとえ欲があると言っても、権力者の強欲さとは比較できないほどせこい。紙で作った布団や、麻で作った衣装、お椀一杯の主食に雑草の吸い物、こんな欲求は世間ではどれぐらいの出費になるだろうか? だから、欲しい物は簡単に手に入り、欲求もすぐに満たされる。また、恥ずかしい身なりをしているので、世間に関わると言っても、修行の妨げになることからは遠ざかり、修行にとってプラスになることにしか近寄ることもない。

 人間として生まれてきたからには、何が何でも世間を捨てて山籠もり生活を営むことが理想である。節操もなく世の中の快楽をむさぼることに忙しく、究極の悟りを思わないとすれば、そこらのブタと何ら変わることがない。

原文

 「道心(だうしんあらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世(のちのよを願はんに(かたかるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死(しやうじ(でんと思はんに、何の(きようありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからん。心は(えんにひかれて移るものなれば、(しづかならでは、道は(ぎやうじ難し。

 その(うつはもの、昔の人に及ばず、山林に(りても、(うゑを助け、(あらしを防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を(むさぼるに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「(そむけるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度(ひとたび、道に(りて世を(いとはん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲(とんよく多きに似るべからず。紙の(ふすま、麻の衣、一(はつのまうけ、(あかざ(あつもの、いくばくか人の(つひえをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに(づる所もあれば、さはいへど、悪には(うとく、善には近づく事のみぞ多き。

 人と生れたらんしるしには、いかにもして世を(のがれんことこそ、あらまほしけれ。(ひとへに(むさぼる事をつとめて、菩提(ぼだいに趣かざらんは、(よろづ畜類(ちくるいに変る所あるまじくや。

注釈

 道心(だうしん

  求道心。仏の道を進み、悟りを開く覚悟。

 後世(のちのよ

  死後に生まれ変わる極楽浄土。

 紙の(ふすま

  紙で作った粗末な夜具。

 (はつ

  僧の食事を入れる粗末な食器。

 菩提(ぼだい

  悟りの世界。

徒然草 第三十段

現代語訳

 人が死んだら、すごく悲しい。

 四十九日の間、山小屋にこもり不便で窮屈な処に大勢が鮨詰め状態で法事を済ませると、急かされる心地がする。その時間の過ぎていく速さは、言葉で表現できない。最終日には、皆が気まずくなって口もきかなくなり、涼しい顔をして荷造りを済ませ、蜘蛛の子を散らすように帰っていく。帰宅してからが、本当の悲しみに暮れる事も多い。それでも、「今回はとんでもない事になった。不吉だ、嫌なことだ。もう忘れてしまおう」などと言う言葉を聞いてしまえば、こんな馬鹿馬鹿しい世の中で、どうして「不吉」などと言うのだろうと思ってしまう。死んだ人への言葉を慎んで、忘れようとするのは悲しい事だ。人の心は気味が悪い。

 時が過ぎ、全て忘却を決め込むわけでないにしても「去っていった者は、だんだん煩わしくなるものだ」という古詩のように忘れていく。口では「悲しい」とか「淋しい」など、何とでも言える。でも、死んだ時ほど悲しくないはずだ。それでいて、下らない茶話には、げらげら笑い出す。骨壷は、辺鄙なところに埋まっており、遺族は命日になると事務的にお参りをする。ほとんど墓石は、苔生して枯れ葉に抱かれている。夕方の嵐や、夜のお月様だけが、時間を作って、お参りをするというのに。

 死んだ人を懐かしく思う人がいる。しかし、その人もいずれ死ぬ。その子孫などは、昔に死んだ人の話を聞いても面白くも何ともない。そのうち、誰の供養かよくわからない法事が流れ作業で処理され、最終的に墓石は放置される。人の死とは、毎年再生する春の草花を見て、感受性の豊かな人が何となくときめく程度の事であろう。嵐と恋して泣いていた松も、千年の寿命を全うせずに、薪として解体され、古墳は耕され、田んぼになる。死んだ人は、死んだことすら葬られていく。

原文

 人の((あとばかり、悲しきはなし。

 中陰(ちゆういんのほど、山里などに移ろひて、便(びんあしく、(せばき所にあまたあひ(て、後のわざども営み合へる、心あわたゝし。日(かずの速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我(かしこげに物ひきしたゝめ、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため(むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。

 年月(ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に(うとしと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。(から(うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり(まうでつゝ見れば、ほどなく、卒都婆(そとば(こけむし、木の葉降り(うづみて、(ゆふべの(あらし、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。

 思ひ(でて(しのぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々(としどしの春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に(むせびし松も千年(ちとせを待たで(たきぎ(くだかれ、古き(つか(かれて田となりぬ。その(かただになくなりぬるぞ悲しき。

注釈

 中陰(ちゅういん

  葬儀の後、四十九日の間。(次の生命を受ける期間とされる)

 去る者は日々に(うと

  「古墓何(こぼいずレノ代ノ人ゾ。姓ト名トヲ知ラズ。化シテ路傍(ろばうノ土ト(リ、年々春草生ズ」と『白氏文集』にある。

 嵐に(むせびし松も千年(ちとせを待たで(たきぎ(くだかれ

  「古墓(カレテ田ト為リ、松柏(くだカレテ薪ト為ル」と『文選』にある。

徒然草 第十七段

現代語訳

 山寺にこもって、ホトケ様をいたわっていると「ばかばかしい」と思った気持ちも消え失せて、脳みその汚れをゴシゴシと洗濯してもらっている気分がする。

原文

 山寺にかきこもりて、仏に(つかうまつるこそ、つれづれもなく、心の(にごりも(きよまる心地すれ。

注釈

 心の(にご

  この世での欲求や煩悩。

徒然草 第四段

現代語訳

 死んでしまった後のことをいつも心に忘れず、仏様の言うことに無関心でないのは素敵なことだ。

原文

 (のちの世の事、心に忘れず、(ほとけの道うとからぬ、心にくし。

注釈

 (のちの世の事

  死後の世界、いわゆる『極楽浄土』のことを遠回しに表現したもの。