悲しみで心がふさぐとき

徒然草 第二百四十三段

現代語訳

 八歳の私は父に、「お父ちゃん。仏様とはどんなものなの」と聞いた。父は、「人間が仏になったのだよ」と答えた。続けて私は、「どんな方法で人は仏になるの」と聞いた。父は、「仏の教え学んでなるんだ」と答えた。続けて私は、「その仏に教えた仏は、誰から仏の教えを学んだんですか」と聞いた。父は、「前の仏の教えを学んで仏になったのだよ」と答えた。続けて私は、「それでは最初に教えた仏は、どんな仏だったのですか」と聞いてみた。父は、「空から降ってきたか、土から生えてきたのだろう」と答えて笑った。後日、父は、「息子に問い詰められて、答えに窮したよ」と、大勢に語って喜んでいた。

原文

 (つになりし年、父に問ひて云はく、「(ほとけ如何(いかなるものにか(そうらふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の(りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや(りけん。土よりや(きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人(しよにんに語りて興じき。

徒然草 第三十八段

現代語訳

 人から羨望の眼差しで見てもらうために忙しく、周りが見えなくなり、一息つく暇もなく、死ぬまでバタバタしているのは馬鹿馬鹿しい。

 金目の物がたくさんあれば、失う物を守ることで精一杯になる。強盗や悪党を呼び寄せ、宗教団体のお布施にたかられる媒介にもなる。黄金の柱で夜空に輝く北斗七星を支えられるぐらいの成金になっても、死んでしまった後には、誰の役にも立たないばかりか、相続で骨肉の争いが勃発するのが目に見えている。流行の最先端を歩もうとする人向けに、目の保養をさせて楽しませるような物も虚しい。運転手付の黒塗りの高級車や、プラチナの爪にダイヤモンドを飾ったアクセサリーなどは、賢い人ならば「下品な成金の持ち物」で「心が腐っている証拠だ」と、冷ややかな目で黙殺するに違いない。金塊は山に埋め、ダイヤモンドはドブ川に投げ捨てるのがよく似合う。物質的裕福さに目がくらむ人は、とっても知能指数が低い人なのだ。

 時代に埋もれない名誉を、未来永劫に残すことは理想的なことかも知れない。しかし、社会的に地位が高い人だとしても、イコール立派な人だとは言えない。欲にまみれた俗人でも、生まれた家や、タイミングさえ合えば、自動的に身分だけは偉くなり、偉そうな事を言いはじめる。通常、人格者は、自ら進んで低い身分に甘んじ、目立たないまま死ぬことが多い。意味もなく高い役職や身分に拘るのも、物質的裕福さを求める事の次に馬鹿馬鹿しいことである。

 「頭脳明晰で綺麗なハートを持っていた」という伝説だけは、未来に残って欲しいと思うかも知れない。しかし、考え直してみれば「自分の事が伝説になって欲しい」と思うのは、名誉を愛し、人からどう思われるかを気にしているだけだ。絶賛してくれる人も、馬鹿にする人も、すぐに死ぬ。「昔々あるところに、こんなに偉い人がいました」と話す伝説の語り部も、やはりすぐに死んでしまう。誰かに恥じ、自分を知ってもらいたいと願うことは無意味でしかない。そもそも、人から絶賛されることは、妬みの原因になる。死後、伝説だけが残ってもクソの足しにもならない。従って「伝説になりたい」と願うのも、物質的裕福さや、高い役職や身分に拘る事の次に馬鹿馬鹿しいことなのであった。

 それでも、あえて知恵を追求し、賢さを求める人のために告ぐ。老子は言った。「知恵は巧妙な嘘を生むものである。才能とは煩悩が増幅した最終形だ。人から聞いた事を暗記するのは、本当の知恵ではない。では、知恵とはいったい何であろうか。そんな事は誰も知らない」と。荘子は言った。「善悪の区別とはいったい何であろうか。何を善と呼び、何を悪と呼べばいいのだろうか? そんな事は誰も知らない」と。本当の超人は知恵もなく、人徳もなく、功労もなく、名声もない。誰も超人を知らず、誰も超人の伝説を語ることはない。それは、真の超人が能力を隠し馬鹿なふりをしているからではない。最初から、賢いとか、馬鹿だとか、得をするとか、失ってしまうとか、そんなことは「どうでもいい」という境地に達しているから誰も気がつかないのだ。

 迷える子羊が、名誉、利益を欲しがる事を考えてみると、だいたいこの程度の事だ。全ては幻であり、話題にする事でもなく、願う事でもない。

原文

 名利(みやうりに使はれて、(しづかなる(いとまなく、一生を苦しむるこそ、(おろかなれ。

 (たから多ければ、身を守るに(まどし。害を賈ひ、(わづらひを招く(なかだちなり。身の(のちには、(こがねをして北斗(ほくとを支ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉(きんぎよくの飾りも、心あらん人は、うたて、(おろかなりとぞ見るべき。(こがねは山に(て、玉は(ふちに投ぐべし。利に(まどふは、すぐれて愚かなる人なり。

 (うづもれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ。位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に(むまれ、時に逢へば、高き位に昇り、(おごを極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから(いやしき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏に高き(つかさ・位を望むも、次に愚かなり。

 智恵と心とこそ、世にすぐれたる(ほまれも残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の(きをよろこぶなり、(むる人、(そしる人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。(たれをか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。(ほまれはまた(そしりの(もとなり。身の(のちの名、残りて、さらに(やくなし。これを願ふも、次に(おろかなり。

 但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵(でては(いつはりあり。才能は煩悩(ぼんなう増長(ぞうちやうせるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるかを智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるかを善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。(たれか知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。(もとより、賢愚(けんぐ得失(とくしつの境にをらざればなり。

 迷ひの心をもちて名利(みやうりの要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。

注釈

 害を賈ひ、(わづらひを招く(なかだち

  「宝ヲ懐イテ以テ害ヲ買ハズ、表ヲ飾リテ以テ(わづらヒヲ招カズ」と『文選』にある。

 (こがねをして北斗(ほくとを支ふ

  「身ノ後ニハ、金ヲ(うづたかクシテ北斗を拄フトモ、生前一樽ノ酒ニハ如カズ」と『白氏文集』にある。

 (こがねは山に(て、玉は(ふちに投ぐ

  「金ヲ山ニ損テ、珠ヲ淵ニ沈ム」と『文選』にある。

 (うづもれぬ名

  「遺文三十軸、軸々金玉ノ声。竜門原上(りゅうもんげんじゃうノ土、骨ヲ埋メテ、名ヲ埋メズ」と『白氏文集』にある。

 いみじかりし賢人・聖人、みづから(いやしき位に居り

  「老子・荘周ハ吾ノ師ナリ。(みづかラ賤職ニ居リ、柳下恵・東方朔(とうはうさくハ達人ナリ。卑位ニ安ンズ」と『文選』にある。柳下恵は真の超人だったため、語り継ぐ者がいない。

 身の(のちの名

  「我ヲシテ身ノ(のちノ名ヲ有ラシメバ、即時一盃ニ如カズ」と『晋書』にある。

 智恵(でては(いつはりあり

  「知慧(デテハ、大偽アリ」と『老子』にある。

 可・不可は一条なり

  「(まさニ可ナレバ方ニ不可、方ニ不可ナレバ方ニ可ナリ」と『荘子』にある。

 まことの人

  「至人ハ己レ無シ。神人ハ功無シ。聖人ハ名ナシ」と『老子』にある。

 万事は皆非なり

  「万事ハ皆非ナリ。燈火ノ涙。一生半バ暮ル。月前ノ情」と『新撰朗詠集』にある。

徒然草 第三十段

現代語訳

 人が死んだら、すごく悲しい。

 四十九日の間、山小屋にこもり不便で窮屈な処に大勢が鮨詰め状態で法事を済ませると、急かされる心地がする。その時間の過ぎていく速さは、言葉で表現できない。最終日には、皆が気まずくなって口もきかなくなり、涼しい顔をして荷造りを済ませ、蜘蛛の子を散らすように帰っていく。帰宅してからが、本当の悲しみに暮れる事も多い。それでも、「今回はとんでもない事になった。不吉だ、嫌なことだ。もう忘れてしまおう」などと言う言葉を聞いてしまえば、こんな馬鹿馬鹿しい世の中で、どうして「不吉」などと言うのだろうと思ってしまう。死んだ人への言葉を慎んで、忘れようとするのは悲しい事だ。人の心は気味が悪い。

 時が過ぎ、全て忘却を決め込むわけでないにしても「去っていった者は、だんだん煩わしくなるものだ」という古詩のように忘れていく。口では「悲しい」とか「淋しい」など、何とでも言える。でも、死んだ時ほど悲しくないはずだ。それでいて、下らない茶話には、げらげら笑い出す。骨壷は、辺鄙なところに埋まっており、遺族は命日になると事務的にお参りをする。ほとんど墓石は、苔生して枯れ葉に抱かれている。夕方の嵐や、夜のお月様だけが、時間を作って、お参りをするというのに。

 死んだ人を懐かしく思う人がいる。しかし、その人もいずれ死ぬ。その子孫などは、昔に死んだ人の話を聞いても面白くも何ともない。そのうち、誰の供養かよくわからない法事が流れ作業で処理され、最終的に墓石は放置される。人の死とは、毎年再生する春の草花を見て、感受性の豊かな人が何となくときめく程度の事であろう。嵐と恋して泣いていた松も、千年の寿命を全うせずに、薪として解体され、古墳は耕され、田んぼになる。死んだ人は、死んだことすら葬られていく。

原文

 人の((あとばかり、悲しきはなし。

 中陰(ちゆういんのほど、山里などに移ろひて、便(びんあしく、(せばき所にあまたあひ(て、後のわざども営み合へる、心あわたゝし。日(かずの速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我(かしこげに物ひきしたゝめ、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため(むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。

 年月(ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に(うとしと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。(から(うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり(まうでつゝ見れば、ほどなく、卒都婆(そとば(こけむし、木の葉降り(うづみて、(ゆふべの(あらし、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。

 思ひ(でて(しのぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々(としどしの春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に(むせびし松も千年(ちとせを待たで(たきぎ(くだかれ、古き(つか(かれて田となりぬ。その(かただになくなりぬるぞ悲しき。

注釈

 中陰(ちゅういん

  葬儀の後、四十九日の間。(次の生命を受ける期間とされる)

 去る者は日々に(うと

  「古墓何(こぼいずレノ代ノ人ゾ。姓ト名トヲ知ラズ。化シテ路傍(ろばうノ土ト(リ、年々春草生ズ」と『白氏文集』にある。

 嵐に(むせびし松も千年(ちとせを待たで(たきぎ(くだかれ

  「古墓(カレテ田ト為リ、松柏(くだカレテ薪ト為ル」と『文選』にある。