現代語訳
藤原公孝が警視庁官だった時の話である。「ああでもない。こうでもない」と話し合い、決議を取っていると、ノンキャリア官僚、中原章兼の車を牽く牛が逃げ出した。牛は役所の中に入り、公孝が座る台座によじ登り、口をモゴモゴさせながらひっくり返った。その場に居た官僚どもは、「とても不吉である。牛を占い師に見せてお祓いしなさい」と言った。それを聞いた、公孝の父君である大臣の実基が、「牛には善悪の区別がない。脚があるのだから、どこにでも登るだろう。貧乏公務員が通勤に使う痩せ牛を取り上げても仕方がない」と言って、持ち主の章兼に引き渡した。牛がいた場所の畳を張り替えて終わりにしたが、取り立てて縁起の悪いことも無かった。
「不吉なことがあっても、気にしなければ、凶事は成り立たない」と古い本に書いてある。
原文
徳大寺故大臣殿 、検非違使 の別当 の時、中門 にて使庁の評定 行はれける程に、官人章兼 が牛放れて、庁の内へ入りて、大理 の座の浜床 の上に登りて、にれうちかみて臥 したりけり。重き怪異 なりとて、牛を陰陽師 の許へ遣すべきよし、各々申しけるを、父の相国 聞き給ひて、「牛に分別 なし。足あれば、いづくへか登らざらん。わう弱 の官人、たまたま出仕の微牛 を取らるべきやうなし」とて、牛をば主 に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
「怪 しみを見て怪 しまざる時は、怪 しみかへりて破る」と言へり。
注釈
藤原公孝。「徳大寺太政大臣」として第二十三段に登場。
検非違使庁の長官。「別当」は長官の意。
「官人」は、初位以上、六位以下の官位。「章兼」は、中原章兼。少尉。
「別当」と同じく、検非違使庁の長官の意。
帳台の下に置く台で、檜の白木で造る。
陰陽寮に属した占筮及び地相などを司った。占い師。
父の
徳大寺実基。検非違使別当から太政大臣。