現代語訳
悟りを開くのであれば、気がかりで捨てられない日常の雑多な用事を途中で辞めて、全部そのまま捨てなさい。「あと少しで定年だから」とか「そうだ、あれをまだやっていない」とか「このままじゃ馬鹿にされたままだ。汚名返上して将来に目処を立てよう」とか「果報は寝て待て。慌てるべからず」などと考えているうちに、他の用事も積み重なり、スケジュールがパンパンになる。そんな一生には、悟り決意をする日が来るはずもない。世間の家庭を覗いてみると、少し利口ぶった人は、だいたいこんな感じで日々を暮らし、死んでしまう。
隣が火事で逃げる人が「ちょっと待ってください」などと言うものか。死にたくなかったら、醜態をさらしてでも、貴重品を捨てて逃げるしかない。命が人の都合を待ってくれるだろうか? 儚い命が閉店する瞬間は、水害、火災より迅速に攻めてくる。逃れられない事だから、臨終に「死にそうな親や、首のすわりの悪い子や、師匠への恩、人から受ける優しさを捨てられそうもない」と言ってみたところで、捨てる羽目になる。
原文
大事 を思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意 を遂 げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰 しおきて」、「しかじかの事、人の嘲 りやあらん。行末 難なくしたゝめまうけて」、「年来 もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の尽 くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期 は過 ぐめる。
近き火などに逃 ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥 をも顧みず、財 をも捨てて遁 れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来 る事は、水火の攻 むるよりも速 かに、遁 れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。
注釈
出家して悟りを開くこと。生きるに当たって一番大切なこと。
無常
永遠の事象が無いこと。人に死が訪れること。