現代語訳
労働者に酒を飲ませる際には、細心の注意をはらわなくてはならない。
宇治に住んでいたある男は、京都に住んでいる具覚房と言う、ちょっとは名の知れた世捨て人と義兄弟の関係だった。なので、よく酒盛りをして親睦を深めた。いつもの様に、馬をやって具覚房を迎えに行かせた。具覚房は「この先、道のりは長い。まずは一杯やりなはれ」と言って、馬を引く男に酒を飲ませた。男は出された酒を次々と、だらだら垂らしながら飲みまくった。
太くて長い刀を腰からぶら下げ、勇敢に歩く男の姿を見て、具覚房は「何とも頼もしい事だ」と、心強く思いながら連れ歩いた。伏見の山道まで進むと、奈良法師が武装した兵隊を連れて歩いていた。泥酔状態の男は、何を血迷ったのか「おいこら、待て。日の暮れた山道を歩く怪しい狼藉者め」と言って、刀を抜いた。すると相手も、刀を抜き、矢を向けて防衛追撃の体勢に入った。具覚房は、咄嗟に危険を察知し、揉み手をしながら「どうかご無礼お許しください。この男は酒に酔って前後不覚なのです。私が頭を下げます。この通りです」と、命乞いをしたので、兵士達は冷笑して去っていった。
出鼻を挫かれた男は「何を言っているのだ、あんたは。俺は酔っちゃいねぇ。狼藉者を成敗して名を轟かす予定が狂ったじゃないか。抜いた刀のやり所に困ったものよ」と逆上して、ブンブンと刀を振り回しながら、具覚房を斬ってしまった。
そして男は、「山賊が出た」と怒鳴った。「何事が起きたのか」と、飛び出してきた野次馬達に向かって、男は「俺が山賊だ」と叫んで走りまわり、刀を振り回し、無差別殺傷に撃ってでた。迎え撃つ村人は大勢で取り囲んで押さえ込み、男を縛り上げた。血まみれになった馬だけが宇治の大通りを疾駆したので、具覚房を迎えにやらせた男は狼狽した。大男達を現場に急行させると、クチナシの花に埋もれて具覚房が唸っていたので病院に担ぎ込んだ。かなり危ない命拾いだったが、腰の傷が深く、車いす生活を余儀なくされた。
原文
下部 に酒飲まする事は、心すべきことなり。
宇治 に住み侍 りけるをのこ、京に、具覚房 とて、なまめきたる遁世 の僧を、こじうとなりければ、常に申し睦 びけり。或時 、迎 へに馬を遣 したりければ、「遥 かなるほどなり。口づきのをのこに、先づ一度 せさせよ」とて、酒を出 だしたれば、さし受けさし受け、よゝと飲みぬ。
太刀 うち佩 きてかひがひしげなれば、頼 もしく覚えて、召し具 して行くほどに、木幡 のほどにて奈良 法師 の、兵士 あまた具 して逢ひたるに、この男立ち向かひて、「日暮れにたる山中 に、怪 しきぞ。止 まり候へ」と言ひて、太刀を引 き抜 きければ、人も皆、太刀抜 き、矢はげなどしけるを、具覚房、手を摺 りて、「現 し心なく酔 ひたる者に候ふ。まげて許 し給はらん」と言いければ、おのおの嘲 りてりて過ぎぬ。
この男、具覚房 にあひて、「御房 は口惜 しき事し給ひつるものかな。己 れ酔 ひたる事侍 らず。高名 仕 らんとするを、抜ける太刀 空 しくなし給ひつること」と怒りて、ひた斬 りに斬り落としつ。
さて、「山だちあり」とのゝしりければ、里人おこりて出 であへば、「我こそ山だちよ」と言ひて、走りかゝりつゝ斬 り廻 りけるを、あまたして手負 ほせ、打ち伏 せて縛 りけり。馬は血つきて、宇治大路 の家に走り入りたり。あさましくて、をのこどもあまた走 らかしたれば、具覚房 はくちなし原にによひ伏したるを、求め出 でて、舁 きもて来 つ。辛 き命生 きたれど、腰斬 り損ぜられて、かたはに成りにけり。
注釈
雑用のために使われる召使い。
京都府南部にある都市。
未詳。「房」は出家した人への敬称。
興福寺、東大寺の僧侶の総称。
山だち
街道にいる強盗。追いはぎ。
宇治中心の大通りのこと。