現代語訳
人里離れた僻地の荒廃した家に、世間から離れて暮らさなければならない境遇の女がいて、退屈に身を任せたまま引き籠もっていた。ある男が、お見舞いをしようと思って、頼りなさそうに月が浮かぶ夜、こっそりと訪問した。犬が世界の終わりを告げるよう吠えるものだから、召使いの女が出てきて「どちら様でしょうか?」と聞く。男は、そのまま案内を受けて中に入った。淋しい様子で、男が「どんな生活をしているのだろう」と思えば胸が苦しくなる。放心したまま崩壊しそうな廊下にしばらく立っていると、若々しさの中に落ち着きのある声がして「こちらにどうぞ」と言うので、小さな引き戸を開けて中に入った。
しかし、家の中までは荒れ果ててはいなかった。遠慮がちにオレンジ色の炎が奥の方でゆらゆらと揺れている。家具も女性らしく、焚いたばかりではない香が、わざとらしくなく空気と溶け合いノスタルジーを誘った。召使いの女が「門はきちんと閉めて下さい。雨が降るかもしれないから車は門の下に停めて、お供の方々はあちらでお休み下さい」と言う。男の家来が「今日は雨風を凌いで夢を見られそうだ」と内緒話をしても、この家では筒抜けになってしまう。
そうして、男と女が世間のことなどを色々と話しているうちに、夜空の下で一番鶏が鳴いた。それでも、過ぎた過去や、幻の未来について甲斐甲斐しく話し込んでいると、鶏が晴れ晴れしく鳴くものだから、「そろそろ夜明けだろうか?」と思うのだが、暗闇を急いで帰る必要もないので、しばらくまどろむ。すると、引き戸の隙間から光が差し込んでくる。男が女に気の利いたことでも言って帰ろうとすれば、梢も庭も、辺り一面が青く光っていた。その、つやつやと光る四月の明け方を、今でも想い出してしまうから、男がこの辺りを通り過ぎる時には、大きな桂の木が視界から消えるまで振り返って見つめ続けたそうだ。
原文
荒れたる
宿 の、人目 なきに、女の憚る事ある比にて、つれづれと籠 り居たるを、或人、とぶらひ給 はむとて、夕月夜 のおぼつかなきほどに、忍 びて尋ねおはしたるに、犬のことごとしくとがむれば、下衆 女の出 でて、「いづくよりぞ」といふに、やがて案内 せさせて、入 り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過 すらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷 に、暫し立ち給へるを、もてしづめたるけはひの若やかなるして、「こなた」と言ふ人あれば、たてあけ所狭 げなる遣戸 よりぞ入 り給ひぬる。
内のさまは、いたくすさまじからず。心にくゝ、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄かにしもあらぬ匂 ひいとなつかしう住みなしたり。「門 よくさしてよ。雨もぞ降る、御車 は門 の下に、御供 の人はそこそこに」と言へば、「今宵 ぞ安き寝 は寝 べかンめる」とうちさゝめくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞ゆ。
さて、このほどの事ども細 やかに聞 え給ふに、夜深 き鳥も鳴 きぬ。来 し方 ・行末 かけてまめやかなる御物語に、この度は鳥も花やかなる声にうちしきれば、明けはなるゝにやと聞き給へど、夜深 く急 ぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、隙 白くなれば、忘 れ難き事など言ひて立ち出 で給ふに、梢 も庭もめづらしく青み渡りたる卯月 ばかりの曙 、艶 にをかしかりしを思 し出 でて、桂 の木の大きなるが隠るゝまで、今も見送り給ふとぞ。
注釈
召使いの女。
板の間。
左右に開ける扉。襖に似ている。