現代語訳
一瞬の時間を「勿体ない」と思う人はいない。「一瞬を惜しむことすら意味がないことだ」と悟りきっているからだろうか。それとも単に馬鹿なだけだろうか。馬鹿で、時間を浪費している人のために敢えて言おう。一円玉はアルミニウムだが、積もって山となれば貧乏人を富豪にする。だから商人はケチなのだ。瞬間を感じるのは困難であるが、瞬間の連続の果てには、命の終焉があり、あっという間に訪れる。
だから修行者は長い単位で月日を惜しんでいる場合ではない。この瞬間が枯れ葉のように飛び去ることを惜しみなさい。もし、死神がやってきて「お前の命は明日終わる。残念だったな」と宣告したら、今日という日が終わるまで、自分が何を求め、何を思うか考えよう。今、生きている今日が、人生最後の日ではないという保証はない。その貴重な一日は、食事、排泄、昼寝、会話、移動と退っ引きならない理由で浪費されるのだ。残ったわずかな時間を、無意味に行動し、無意味に語り、無意味に妄想して、無駄に過ごし、そのまま一日を消し去り、ひと月を貫通し、一生を使い切ったとすれば、それは、阿呆の一生でしかない。
中国の詩人、謝霊運は、法華経の翻訳を速記するほどの人物だったが、いつでも心の空に雲を浮かべて詩ばかり書いていたから、師匠の恵遠は仲間達と念仏を唱えることを許さなかった。時間を無駄にして浮かれているのなら、何ら死体と変わらない。なぜ瞬間を惜しむのかと言えば、心の迷いを捨て、世間との軋轢がない状況で、何もしたくない人は何もせず、修行したい人は修行を続けるという境地に達するためだ。
原文
寸陰
惜 しむ人なし。これ、よく知れるか、愚 かなるか。愚かにして怠 る人のために言はば、一銭軽 しと言へども、これを重 ぬれば、貧 しき人を富 める人となす。されば、商人 の、一銭を惜 しむ心、切 なり。刹那 覚 えずといへども、これを運 びて止 まざれば、命を終 ふる期 、忽 ちに至る。
されば、道人 は、遠く日月 を惜 しむべからず。たゞ今の一念、空しく過ぐる事を惜 しむべし。もし、人来 りて、我が命、明日 は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか頼 み、何事をか営 まん。我等が生 ける今日 の日、何 ぞ、その時節に異 ならん。一日のうちに、飲食 ・便利・睡眠 ・言語 ・行歩 、止む事を得 ずして、多くの時を失 ふ。その余りの暇幾ばくならぬうちに、無益 の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟 して時を移すのみならず、日を消し、月を亘 りて、一生を送る、尤 も愚 かなり。
謝霊運 は、法華 の筆受 なりしかども、心、常に風雲の思を観 ぜしかば恵遠 、百蓮 の交 りを許さざりき。暫くもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜 しむとならば、内に思慮なく、外 に世事 なくして、止 まん人は止み、修 せん人は修せよとなり。
注釈
仏道修行者のこと。
中国の六朝時代の詩人。
サンスクリット語の法華経を漢文に翻訳する際に筆記する役人。
東晋の高僧。中国浄土教の開祖としてしられる。
後堀河天皇の后で、藤原有子。師教の祖母の姉に当たる。
恵遠が提唱した念仏修行集団の百蓮社。「時二、遠公(恵遠)諸賢ト同ジク浄土教ヲ修ス。