現代語訳
世間には、理解に苦しむことが多い。何かある度に、「まずは一杯」と、無理に酒を飲ませて喜ぶ風習は、どういう事か理解できない。飲まされる側は、嫌そうにしかめ面をし、人目を見計らって盃の中身を捨てて逃げる予定だ。それを捕まえて引き止め、むやみに飲ませると、育ちの良い人でも、たちまち乱暴者に変身して暴れ出す。健康な人でも、目の前で瀕死の重体になり、前後不覚に倒れる。これが祝いの席だったら大惨事だ。翌日は二日酔いで、食欲が無くなり、うめき声を上げながら寝込む。生きた心地もせず、記憶は断片的に無い。大切な予定も全てキャンセルし、生活にも支障をきたす。こんなに非道い目に遭わせるのは、思いやりが無く、無礼でもある。辛い目に遭わされた本人も、恨みと妬みでいっぱいだろう。もし、これが余所の国の風習で、人づてに聞いたとしたら、異文化の不気味さに驚くに違いない。
他人事だとしても、酔っぱらいは見ていて嫌になる。用心深く、真面目そうな人でも、酔えば、馬鹿のように笑い出し、大声で喋り散らす。カツラを乱し、ネクタイを弛め、靴下を脱いでスネ毛を風にそよがせる。普段の本人からは想像できない醜態だ。女が酔えば、前髪をバサリとかき上げ、恥じらいもなく大口で笑い、男の盃を持つ手にまとわりつく。もっと非道くなると、男に食べ物をくわえさせ、自分もそれを食うのだから、汚らわしい。そして、声が潰れるまで歌い、踊るうちに、ヨボヨボな坊主が呼び出され、黒くて汚らしい肩をはだけて、ヨロヨロと身体をよじって踊る。この見るに堪えない余興を喜ぶ人達が、鬱陶しく憎たらしい。それから、自分がいかに人格者であるか、端から聞きけば失笑も辞さない話を演説し、仕舞いには泣き出す始末である。家来達は罵倒し合い、小競り合いを始め出す。恐ろしさに呆然となる。酔えば恥を晒し、迷惑をかける。挙げ句の果てには、いけないものを取ろうとして窓から落ちたり、車やプラットフォームから転げ落ちて大怪我をする。乗り物に乗らない人は、大通りを千鳥足で歩き、塀や門の下に吐瀉物を撒き散らす。年を取った坊さんがヨレヨレの袈裟を身にまとい、子供に意味不明な話をしてよろめく姿は、悲惨でもある。こんな涙ぐましい行為が死後の世界に役立つのであれば仕方ない。しかし、この世の酒は、事故を招き、財産を奪い、身体を貪るのである。「酒は百薬の長」と言うが、多くの病気は酒が原因だ。また、「酔うと嫌なことを忘れる」と言うが、ただ単に悪酔いしているだけにも見られる。酒は脳味噌を溶かし、気化したアルコールは業火となる。邪悪な心が広がって、法を犯し、死後には地獄に堕ちる。「酒を手にして人に飲ませれば、ミミズやムカデに五百度生まれ変わる」と、仏は説いている。
以上、酒を飲むとろくな事がないのだが、やっぱり酒を捨てるのは、もったいない。月見酒、雪見酒、花見酒。思う存分語り合って盃をやりとりするのは、至高の喜びだ。何もすることがない日に、友が現れ一席を設けるのも楽しみの一つだ。馴れ馴れしくできない人が簾の向こうから、果物と一緒にお酒を優雅に振る舞ってくれたとしたら感激物だ。冬の狭い場所で、火を囲み差し向かいで熱燗をやるのも一興だ。旅先で「何かつまむ物があったら」と言いながら飲むのも、さっぱりしている。無礼講で、「もっと飲みなさい。お酒が減っていませんね」と言ってくれるのは、ありがたい。気になる人が酒好きで飲み明かせるのは、楽しい。
ともあれ、酒飲みに罪はない。ヘベレケに酔っぱらって野営した朝、家主が引き戸を開けると、寝ぼけ眼で飛び起きる。髪を乱したまま、着衣を正す間もなく逃げる。裾をまくった後ろ姿や、細い足のスネ毛など、見ていて楽しく、いかにも酔っぱらいだ。
原文
世には、心
得 ぬ事の多きなり。ともある毎には、まづ、酒を勧 めて、強 ひ飲ませたるを興 とする事、如何なる故とも心得ず。飲む人の、顔いと堪 へ難げに眉 を顰 め、人目を測りて捨てんとし、逃 げんとするを、捉 へて引き止 めて、すゞろに飲ませつれば、うるはしき人も、忽ちに狂人 となりてをこがましく、息災 なる人も、目の前に大事の病者 となりて、前後も知 らず倒 れ伏す。祝 ふべき日などは、あさましかりぬべし。明 くる日まで頭痛 く、物食 はず、によひ臥 し、生 を隔 てたるやうにして、昨日 の事覚 えず、公 ・私 の大事を欠きて、煩 ひとなる。人をしてかゝる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にも背 けり。かく辛 き目に逢 ひたらん人、ねたく、口惜 しと思はざらんや。人の国にかゝる習ひあンなりと、これらになき人事 にて伝へ聞きたらんは、あやしく、不思議に覚えぬべし。
人の上にて見たるだに、心憂 し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひのゝしり、詞 多く、烏帽子 歪み、紐 外 し、脛 高く掲げて、用意なき気色 、日来の人とも覚えず。女は、額髪 晴 れらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちさゝげてうち笑ひ、盃 持てる手に取り付き、よからぬ人は、肴 取りて、口にさし当て、自らも食ひたる、様 あし。声の限り出 して、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し出 されて、黒く穢き身を肩抜ぎて、目も当てられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましく、憎し。或 はまた、我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひ聞かせ、或は酔 ひ泣きし、下 ざまの人は、罵下 り合ひ、争 ひて、あさましく、恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、果は、許さぬ物ども押し取りて、縁 より落ち、馬・車より落ちて、過しつ。物にも乗らぬ際は、大路 をよろぼひ行きて、築泥・門の下などに向きて、えも言はぬ事どもし散らし、年老い、袈裟 掛けたる法師 の、小童 の肩 を押 へて、聞えぬ事ども言ひつゝよろめきたる、いとかはゆし。かゝる事をしても、この世も後 の世も益 あるべきわざならば、いかゞはせん、この世には過ち多く、財 を失ひ、病をまうく。百薬の長 とはいへど、万 の病は酒よりこそ起れ。憂 へ忘るといへど、酔 ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出 でて泣くめる。後の世は、人の智恵を失ひ、善根 を焼くこと火の如くして、悪を増し、万の戒 を破りて、地獄に堕つべし。「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生 が間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。
かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝 、花の本にても、心長閑 に物語して、盃 出 だしたる、万の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外 に友の入 り来て、とり行 ひたるも、心慰む。馴れ馴れしからぬあたりの御簾 の中 より、御果物 ・御酒 など、よきやうなる気はひしてさし出 だされたる、いとよし。冬、狭 き所にて、火にて物煎 りなどして、隔 てなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。旅の仮屋 、野山などにて、「御肴 何がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるも、をかし。いたう痛む人の、強 ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「今ひとつ。上 少し」などのたまはせたるも、うれし。近づかまほしき人の、上戸 にて、ひしひしと馴 れぬる、またうれし。
さは言へど、上戸 は、をかしく、罪許さるゝ者なり。酔 ひくたびれて朝寝 したる所を、主 の引き開 けたるに、惑 ひて、惚れたる顔ながら、細き髻 差し出 だし、物も着あへず抱 き持 ち、ひきしろひて逃 ぐる、掻取 姿の後ろ手、毛生 ひたる細脛 のほど、をかしく、つきづきし。