誘惑に負けそうなとき

徒然草 第百六十七段

現代語訳

 ある専門家が、違う分野の宴会に参加すると、「もし、これが自分の専門だったら、こうやって大人しくしていることも無かっただろう」と悔しがり、勘違いすることがよくある。何ともせこい心構えだ。知らないことが羨ましかったら、「羨ましい。勉強しておけば良かった」と、素直に言えばいい。自分の知恵を使って誰かと競うのは、角を持つ獣が角を突き出し、牙のある獣が牙をむき出すのと一緒である。

 人間は、自分の能力を自慢せず、競わないのを美徳とする。人より優れた能力は、欠点なのだ。家柄が良く、知能指数が高く、血筋が良く、「自分は選ばれた人間だ」と思っている人は、たとえ言葉にしなくても嫌なオーラを無意識に発散させている。改心して、この奢りを忘れるがよい。端から見ると馬鹿にも見え、世間から陰口を叩かれ、ピンチを招くのが、この図々しい気持ちなのである。

 真のプロフェッショナルは、自分の欠点を正確に知っているから、いつも向上心が満たされず、背中を丸めているのだ。

原文

 一道(いちだう(たづさはる人、あらぬ道の(むしろ(のぞみて、「あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見(はべらじものを」と言ひ、心にも思へる事、(つねのことなれど、よに(わろ(おぼゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし。などか習はざりけん」と言ひてありなん。我が智を取り出でて人に争ふは、(つのある物の、角を傾け、(きばある物の、牙を((だす(たぐひなり。

 人としては、善に伐らず、物と(あらそはざるを徳とす。他に(まさることのあるは、大きなる(しつなり。(しなの高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の(ほまれにても、人に(まされりと思へる人は、たとひ言葉に(でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎あり。慎みて、これを忘るべし。痴にも見え、人にも言ひ(たれ、(わさはひをも招くは、たゞ、この慢心(まんしんなり。

 一道にもまことに(ちやうじぬる人は、自ら、明らかにその非を知る(ゆゑに、志常に(たずして、(つひに、物に(ほこる事なし。

注釈

 一道(いちだう(たづさはる人

  一つの専門を追及する人。芸術、学問、文芸などを言う。

徒然草 第百三十七段

現代語訳

 サクラの花は満開の時だけを、月は影のない満月だけを見るものだろうか? 雨に打たれて雲の向こうに浮かぶ月を恋しく思い、カーテンを閉め切って春が終わっていくのを見届けないとしても、また、ふんわりと優しい気持ちになるものだ。こぼれそうなツボミの枝や、花びらのカーペットが敷かれている庭だって見所はたくさんある。短歌の説明書きなどでも「お花見に行ったのですが、既に散り去っていて」とか「のっぴきならぬ事情で花見に行けなくて」と書いてあるのは「満開のサクラを見て詠みました」と書いてある短歌に負けることがあるだろうか? 花が散り、月が欠けていくのを切ない気持ちで見つめるのは自然なことであるが、なかには、この気持ちを知らない人がいて「この枝も、あの枝も、花が散ってしまった。もう花見など出来ない」と騒ぐ。

 この世界の事は、始めと終わりが大切なのだ。男女のアフェアだって、本能の赴くまま睦み合うのが全てだろうか? 逢わずに終わった恋の切なさに胸を焦がし、変わってしまった女心と、未遂に終わった約束に放心しながら、終わりそうもない夜を一人で明かし、恋しい人がいる場所に男の哀愁をぶっ放したり、雑草の生い茂る荒れ果てた庭を眺めては、懐かしいあの頃を想い出したりするのが、恋の終着駅に違いない。澄み切った空に、光り輝く満月が空を照らす景色よりも、夜明け近くまで待ち続け、やっと出た月が、妖しく青い光を放ち、山奥の杉の枝にぶら下がったり、樹の間に影を作ったり、時折雨を降らせた雲の向こうに隠れているのは、格別に神々しい。椎や樫の木の濡れた葉の上に、月の光がキラキラと反射しているのを見ると、心が震え、この気持ちを誰かと共有したくなり、京都が恋しくなる。

 月であってもサクラであっても、一概に目だけで見るものだろうか? サクラが咲き乱れる春は、家から一歩も出なくても、満月の夜は、部屋に籠もっていても、妄想だけで気持ちを増幅させることは可能だ。洗練された人は好事家には見えず、貪ったりしない。中途半端な田舎者ほど、実体だけをねちっこく有り難がる。サクラの木の根本にへばりついて、身をよじらせ、すり寄って、穴が空くほど見つめていたかと思えば、宴会を始め、カラオケにこぶしを震わせたあげく、太い枝を折って振り回したりする始末である。澄んだ泉には手足をぶち込むし、雪が降れば、地面に降りて足跡を付けたがり、自然をあるがままに、客観的に受け入れられないようだ。

 こういう田舎者が、下鴨神社の葵祭を見物している現場は、大変ちんちくりんである。「見せ物がなかなか来ない。来るまでは観客席にいる必要もない」などと言って、奥にある部屋で酒を飲み、出前を取って、麻雀、花札などのギャンブルに燃える。見物席に見張りを立たせておいたので、「いま通り過ぎます」と報告があった時に、あれよあれよと内臓が圧迫するぐらいの勢いで、お互いに牽制しながら走り、落っこちそうになるまで、すだれを押し出して、押しくらまんじゅう。一瞬でも見逃すまいと凝視して、「ガー。ピー」と何かあるたびに奇声を発する。行列が去ると「次が来るまで」と、見物席から消えていく。ただ単に祭の行列だけを見ようと思っているのだろう。一方、都会の気高い人は目を閉じて、何も見ようとしない。都会の若者たちは、主人の世話に立ったり座ったりして、見物を我慢している。控えのお供も、品なく身を乗り出したりせず、無理をして祭を見ようとしない。

 葵祭の日だから思い思いに葵の葉を掛けめぐらせて、街は不思議な雰囲気である。そんな中、日の出に、するすると集まってくる車には「誰が乗るのだろうか」と思い、あの人だろうか? それともあの人だろうか? と、思いを巡らせていると、運転手や執事などに見覚えのある人がいる。そして煌びやかに輝く葵の葉を纏った車が流れて行くのを見れば、我を忘れてしまう。日が落ちる頃、並んでいた車も、黒山の人集りも、一体どこへ消えて行くのだろうか? 人が疎らになり、帰りの車が行ってしまうと、スダレやゴザが片付けられ、目の前が淋しくなる。そして、永遠なんて何一つ無い世の中とオーバーラップして儚い気持ちになる。行列を見るよりも、終日、大通りの移り変わりを見るのが本当の祭見物なのだ。

 見物席の前を往来している人の中に、知った顔が大勢いたので、世間の人口も、それほど多くないと思った。この人達がみんな死んでしまった後に、私が死ぬ運命だったとしても、たいした時間も残されていないだろう。大きな袋に水を入れて針で小さな穴を刺したら、水滴は少しずつ落ちるが、留まることが無いのだから最後は空になる。同じく、都会に生きる人の誰かが一人も死なない日など無い。毎日、死者は一人や二人では済まない。鳥部野や舟岡、他の火葬場にも棺桶がやたら多く担ぎ込まれる日があるけれど、棺桶を成仏させない日などない。だから棺桶業者は、作っても、作っても在庫不足に悩まされる。若くても、健康でも、忘れた頃にやって来るのが死の瞬間である。今日まで何とか生きてこられたのは有り得ないことで、奇跡でしかない。「こんな日がいつまでも続けばいいな」などと、田分けた事を考えている場合ではないのだ。オセロなど盤上にコマを並べている時は、ひっくり返されるコマがどれだか分からないが、まず一カ所をひっくり返して、何とか逃れても、その次の手順で、その外側がひっくり返されてしまう。このコマが取れる、あのコマが取れる、とやっているうちに、どれも取れなくなってしまい、結局は全部、ひっくり返されて、盤上は真っ黒になる。これは、死から逃れられないのと、非常によく似ている。兵隊が戦場に行けば、死が近いと悟って、家や自分の身体のことも忘れる。しかし、「世を捨てました」と言って隠遁しているアナーキストが、掘っ建て小屋の前で、いぶし銀に石を置き、水を流して庭をいじりをし、自分の死を夢にも思っていないのは、情けないとしか言いようがない。静かな山奥に籠もっていたとしても、押し寄せる強敵、平たく言うと死の瞬間が、あっという間にやって来ないことがあるだろうか? 毎日、死と向かい合っているのだから、敵陣に突き進む兵隊と同じなのだ。

原文

 花は盛りに、月は(くまなきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛(ゆくへ知らぬも、なほ、あはれに情け深し。咲きぬべきほどの(こずゑ、散り萎れたる庭などこそ、見所(みどころ多けれ。歌の詞書(ことばがきにも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに(おとれる事かは。花の散り、月の(かたぶくを(したふ習ひはさる事なれど、(ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝(りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。

 (よろづの事も、始め・終りこそをかしけれ。(をとこ(をんな(なさけも、ひとへに(ひ見るをば言ふものかは。(はで(みにし(さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井(くもゐを思ひやり、浅茅(あさぢ宿(やどに昔を(しのぶこそ、色(このむとは言はめ。望月(もちづきの隈なきを千里(ちさと(ほかまで眺めたるよりも、(あかつき近くなりて待ち(でたるが、いと心深う(あをみたるやうにて、深き山の杉の(こずゑに見えたる、木の(の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴(しひしば白樫(しらかしなどの、(れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、心あらん友もがなと、都恋しう(おぼゆれ。

 すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち(らでも、月の夜は(ねやのうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに(けるさまにも見えず、(きようずるさまも等閑(なほざりなり。片田舎(かたゐなかの人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の(もとには、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌(れんがして、果は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。(いづみには手足さし浸して、雪には下り立ちて(あとつけなど、万の物、よそながら見ることなし。

 さやうの人の(まつり(しさま、いと(めづらかなりき。「見事いと遅し。そのほどは桟敷(さじき不用なり」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁(ゐご双六(すごろくなど遊びて、桟敷(さじきには人を置きたれば、「渡り(さうらふ」と言ふ時に、おのおの(きも(つぶるゝやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで(すだれ張り(でて、押し合ひつゝ、一事(ひとことも見洩さじとまぼりて、「とあり、かゝり」と物毎に言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。たゞ、物をのみ見んとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、(ねぶりて、いとも見ず。若く末々(すゑずゑなるは、宮仕(みやづかへに立ち(、人の(うし(さぶらふは、(さまあしくも及びかゝらず、わりなく見んとする人もなし。

 何となく(あふひ(かけけ渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、(しのびて(する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼(うしかひ下部(しもべなどの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。暮るゝほどには、立て並べつる車ども、所なく(みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく(まれに成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、(すだれ(たたみも取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の(ためしも思ひ知られて、あはれなれ。大路(おほち見たるこそ、祭見たるにてはあれ。

 かの桟敷(さじきの前をこゝら行き(ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数(ひとかずもさのみは多からぬにこそ。この人皆(せなん(のち、我が身死ぬべきに(さだまりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる(うつはものに水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、(おこた(なく(りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。鳥部野(とりべの舟岡(ふなをか、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、(ひつぎ(ひさく者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期(しごなり。今日(けふまで(のが(にけるは、ありがたき不思議(ふしぎなり。(しばしも世をのどかには思ひなんや。継子立(ままこだてといふものを双六(すごろくの石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、(かぞへ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた(かぞふれば、彼是(かれこれ間抜(まぬき行くほどに、いづれも(のがれざるに似たり。(つはものの、(いくさ(づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を(そむける草の(いほりには、閑かに水石(すいせきを翫びて、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常(むじやう(かたき(きほ(きたらざらんや。その、死に(のぞめる事、(いくさ(ぢんに進めるに同じ。

注釈

 詞書(ことばがき

  和歌の説明書き。

 椎柴(しひしば

  椎の木や、椎の木から生えている草木。

 白樫(しらかし

  ブナ科の常緑樹。

 鳥部野(とりべの

  鳥部山(第七段参照)の山麓。墓地、火葬場があった。

 舟岡(ふなをか

  京都市上京区にある舟の形の丘。墓地、火葬場があった。

 継子立(ままこだて

  室町時代の数学を使った遊び。

徒然草 第五十九段

現代語訳

 悟りを開くのであれば、気がかりで捨てられない日常の雑多な用事を途中で辞めて、全部そのまま捨てなさい。「あと少しで定年だから」とか「そうだ、あれをまだやっていない」とか「このままじゃ馬鹿にされたままだ。汚名返上して将来に目処を立てよう」とか「果報は寝て待て。慌てるべからず」などと考えているうちに、他の用事も積み重なり、スケジュールがパンパンになる。そんな一生には、悟り決意をする日が来るはずもない。世間の家庭を覗いてみると、少し利口ぶった人は、だいたいこんな感じで日々を暮らし、死んでしまう。

 隣が火事で逃げる人が「ちょっと待ってください」などと言うものか。死にたくなかったら、醜態をさらしてでも、貴重品を捨てて逃げるしかない。命が人の都合を待ってくれるだろうか? 儚い命が閉店する瞬間は、水害、火災より迅速に攻めてくる。逃れられない事だから、臨終に「死にそうな親や、首のすわりの悪い子や、師匠への恩、人から受ける優しさを捨てられそうもない」と言ってみたところで、捨てる羽目になる。

原文

 大事(だいじを思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意(ほい(げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰(さたしおきて」、「しかじかの事、人の(あざけりやあらん。行末(ゆくすゑ難なくしたゝめまうけて」、「年来(としごろもあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の(くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期(いちご(ぐめる。

 近き火などに(ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、(はぢをも顧みず、(たからをも捨てて(のがれ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の(きたる事は、水火の(むるよりも(すみかに、(のがれ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。

注釈

 大事(だいじ

  出家して悟りを開くこと。生きるに当たって一番大切なこと。

 無常

  永遠の事象が無いこと。人に死が訪れること。

徒然草 第九段

現代語訳

 女の子の髪の毛はなんてハラショーなのだろう。男の子だったら、みんなが夢中になってしまう。けれども、女の子の性格だとか人柄は、障子やすだれ越しに少しお話しただけでもわかってしまうものだ。

ささいなことで女の子が無邪気に振る舞ったりしただけでも、男の子はメロメロになってしまう。そして女の子が、ほとんどぐっすりと眠ったりはしないで「わたしの体なんてどうなってもいいの」と思いながら普通なら辛抱たまらんことにも健気に対応しているのは一途に男の子への愛欲を想っているからなのである。

 人を恋するということは、自分の意志で作り出しているものじゃないから、止まらない気持ちを抑えることはどうにもできない。人間には、見たい、聞きたい、匂いかぎたい、舐めたい、触りたい、妄想、という六つの欲望があるけれども、これらは、百歩ゆずれば我慢できなくもない。しかし、その中でもどうしても我慢できないことは、女の子を想って切なくなってしまうことである。死にそうな爺さんでも、青二才でも、知識人と呼ばれる人でも、コンビニにたむろしている人でも、なんら違いがないように思われる。

 だから「女の子の髪の毛を編んで作った縄には、ぞうさんをしっかり繋いでおくことができ、女の子の足のにおいがする靴で作った笛の音には、秋に浮かれている鹿さんが、きっと寄ってくる」と言い伝えられているのだ。男の子が気をつけて「恐ろしい」と思い、身につまされなくちゃいけない事は、こういった恋愛や女の子の誘惑なのである。

原文

 女は、髪のめでたからんこそ、人の目立つべかンめれ、人のほど・心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越(ものごしにも知らるれ。

 ことにふれて、うちあるさまにも人の心を惑はし、すべて、女の、うちとけたる((ず、身を(しとも思ひたらず、(ふべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ、色を思ふがゆゑなり。

 まことに、愛著(あいぢやくの道、その根深く、(みなもととほし。六塵(ろくぢん楽欲(げうよく多しといへども、みな厭離(えんりしつべし。その中に、たゞ、かの(まどひのひとつ(めがたきのみぞ、老いたるも、若きも、智あるも、愚かなるも、変る所なしと見ゆる。

 されば、女の髪すぢを縒れる綱には、大象(だいざうもよく繋がれ、女のはける足駄(あしだにて作れる笛には、秋の鹿(しか(かなら(るとぞ言ひ伝へ(はべる。自ら戒めて、(おそるべく、(つつむべきは、この(まどひなり。

注釈

 愛著(あいぢやくの道

  女の愛情に執着する道のこと。

 六塵(ろくぢん

  仏教において、人間の感覚器官を、眼、耳、鼻、舌、体、意識の六根という六つの働きに分類する。それらの器官に刺激を与える、色、声、香り、味、感触、掟は人間の心を穢す物として「六塵(ろくぢん」と呼ぶ。

徒然草 第八段

現代語訳

 男の子を狂わせる事といえば、なんと言っても性欲がいちばん激しい。男心は節操がなく身につまされる。

 香りなどはまやかしで、朝方に洗髪したシャンプーのにおいだとわかっていても、あのたまらなくいいにおいにはドキドキしないではいられない。「空飛ぶ術を身につけた仙人が、足で洗濯をしている女の子のふくらはぎを見て、仙人からただのイヤらしいおっさんになってしまい空から降ってきた」とかいう話がある。二の腕やふくらはぎが、きめ細やかでぷるぷるしているのは、女の子の生の可愛さだから妙に納得してしまう。

原文

 世の人の心惑はす事、色欲(しきよくには如かず。人の心は(おろかなるものかな。

 (にほひなどは(かりのものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米(くめの仙人の、物洗ふ女の(はぎの白きを見て、(つうを失ひけんは、まことに、手足(てあし・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。

注釈

 九米(くめの仙人

  大和の国の竜門寺にて飛行の術の修行を行っていた。「後ニ九米(クメモ既ニ仙ニ成リテ、空ニ昇リテ飛ビテ渡ル間、吉野河ノ(ホトリニ、若キ女、衣ヲ洗ヒテ立テリ。衣ヲ洗フトテ、女ノ、(ハギマデ衣ヲ掻キ上ゲタルニ、脛ノ白カリケルヲ見テ、久米、心(ケガレテ、其ノ女ノ前ニ落チヌ」と『今昔物語』にある。

徒然草 第三段

現代語訳

 どんなことでも要領よくこなせる人だとしても、妄想したりエッチなことを考えない男の子は、穴が空いたクリスタルグラスからシャンパーニュがこぼれてしまうように、つまらないしドキドキしない。

 明け方、水滴を身にまとい、よたよたと千鳥足で挙動不審に歩いたりして、おとうさん、おかあさんの言うことも聞かず、近所のひとに馬鹿にされても、何で馬鹿にされているのかも理解できず、どうしようもないことを妄想してばかりいるくせに、なぜだか間が悪く、むらむらして寝付けずに一人淋しく興奮する夜を過ごしたりすれば、得体の知れない快感に満たされる。

 とはいっても、がむしゃらに恋に溺れるのではなくて、女の子からは「節操のない男の子だわ」と思われないように注意しておくのがミソである。

原文

 (よろづにいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の(さかづき(そこなき心地ぞすべき。

 露霜(つゆしもにしほたれて、所定めずまどひ歩き、親の(いさめ、世の(そしりをつゝむに心の暇なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。

 さりとて、ひたすらたはれたる(かたにはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

注釈

 玉の(さかづき(そこなき心地

  文選、三都賦の序に「玉ノ(サカヅキ(ソコナキハ宝トイヘドモ用ニ(アラズ」とある。

徒然草 第一段

現代語訳

 さて人間は、この世に産み落とされたら、誰にだって「こういう風になりたい」という将来のビジョンが沢山あるようだ。

 皇帝ともなるとあまりにも(おそれれ多いので語るまでもない。竹林で育った竹が、その先端まで竹であるのと同じで、皇帝の系譜は、その末端まで遺伝子を受け継ぐ。その遺伝子が人間を超越して、わけが分からないものになっているのは、とても神聖だ。政界のナンバーワンである摂政関白大臣の外見が尊いことも説明する必要がなく、それ以下のプチブル皇族を警備させていただける身分の人でさえも偉そうに見える。その人の子供や孫がその後、没落してしまったとしても、それはそれで魅力があるように思われる。もっと身分が低い人たちは、やはり身分相応で、たまたまラッキーなことが重って出世した分際で得意げな顔をして「偉くなったもんだ」と思っている人などは、他人からは、やはり「馬鹿だ」と思われている。

 坊さんくらい、他人から見ると「あの様には成りたくない」と思われるものはない。「人から、その頼りなさに樹木の末端のように思われる」と清少納言が、『枕草子』に書いているが、まったくその通りだ。出世した坊さんが大きな態度で調子に乗っているのは、見た目にも立派ではない。蔵賀(ぞうが先生も言っていたが「名誉や、人からどう思われるかなどに忙しくて、仏様のご意向に添えていない」と思ってしまう。それとは対極に、もうどうでもよくなってしまうまで世の中のことを捨ててしまった人は、なぜか輝かしい人生を歩んでいるように感じられる。

 現実を生きている人としては、顔、スタイルが優れているのが一番よいに決まっている。そういう人は、何気なく何かを言ったとしても嫌みな感じがせず、魅力的だ。寡黙にいつまでも向かい合っていたい。

 「立派な人かもしれない」と尊敬していても、その人の幻滅してしまうような本性を見つけてしまえばショックを受けるに違いない。「家柄が良い」とか「美形の遺伝子を受け継いだ」とか、そういうことは産んでくれた親と深く関わっているから仕方がないが、精神のことは努力して「スキルアップしよう」と思えば、達成できないこともない。見た目や性格が素敵な人でも、勉強が足りなければ、育ちが悪く生活態度が顔に滲み出ている連中に混ざって赤く染まってしまう。残念なことだ。

 本当に大切な未来のビジョンは、アカデミックな学問の世界、漢詩の創作、短歌、音楽の心得、そして基本的な作法で、人々からお手本にされるようになったら言うことはない。習字なども優雅にすらすらと書けて、歌もうまくリズム感があり、はにかみながらお酌を断るのだけど、実は嫌いじゃないのが、真の美男子なのである。

原文

 いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かンめれ。

 御門(みかどの御位は、いともかしこし。竹の園生(そのふの、末葉(すゑばまで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。(いちの人の御有様はさらなり、たゞ(びとも、舎人(とねりなど給はるきはは、ゆゝしと見ゆ。その子・(むまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより(しもつかたは、ほどにつけつゝ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。

 法師ばかり(うらやましからぬものはあらじ。「人には木の(はじのやうに思はるゝよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢まうに、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀(ぞうがひじりの言ひけんやうに、名聞(みやうもんぐるしく、仏の御教にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

 人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎやうありて、言葉多からぬこそ、(かず向はまほしけれ。

 めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性(ほんしやう見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、(ざえなく成りぬれば、品下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意(ほいなきわざなれ。

 ありたき事は、まことしき(ふみの道、作文(さくもん・和歌・管絃(くわんげんの道。また、有職(いうそく公事(くじの方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など(つたなからず走り書き、声をかしくて拍子(ひやうしとり、いたましうするものから、下戸(げこならぬこそ、男はよけれ。

注釈

 竹の園生

  史記(漢の時代の史書)に「漢の文帝の子の梁の孝王が庭園に竹を多く植えた」という故事があり、皇族の子孫のこと。

 清少納言

  平安時代の作家、歌人。日本三大エッセーの『枕草子』を記す。ちなみに『徒然草』もこの一つ。ほかに鴨長明の『方丈記』がある。

 蔵賀(ぞうがひじり

  比叡山の僧侶。名誉を嫌って隠遁していた。

 有職(いうそく

  公家の儀式等の知識と、それに詳しい者。