現代語訳
随身の中原近友が自慢話だと断って書いた、七つの箇条書きがある。全て馬術の事で、くだらない話だ。そう言えば、私にも自慢話が七つある。
一つ。大勢で花見に行ったときの事である。最勝光院の近くで馬に乗る男がいた。それを見て、「もう一度馬を走らせたら、馬が転んで落馬するでしょう。見てご覧なさい」と言って立ち止まった。再び馬が走ると、やはり引き倒してしまい、騎手は泥濘に墜落した。私の予言が的中したので、連中は、たまげていた。
一つ。後醍醐天皇が皇太子だった頃の話である。万里小路の東宮御所に堀川大納言がご機嫌伺いにやって来て、待合室で待っていた。用事があって待合室に入ると、大納言は『論語』の四、五、六巻を広げて、「皇太子様が『世間では紫色ばかり重宝され、朱色を軽く見ているのが憎い』という話を読みたいと言うのだが、本を探しても見つからない。『もっとよく探してみろ』と言われて困っているところだ」と言った。私が「九巻の、そこにありますよ」と教えてあげたら、「とても助かった。ありがとう」と言って、その本を持って皇太子様のもとへと飛んで行った。子供でも知っているような事だけど、昔の人は、こんな些細な事も大げさに自慢したものだ。後鳥羽院が、「短歌に袖という単語と、袂という単語を一首の中に折り込むのは悪いことでしょうか」と、藤原定家に質問したことがあった。定家は、「古今集に『秋の草 薄が袂に見えてくる稲穂は手招きする袖のよう』という和歌が古今集にございますので、何ら問題はないでしょう」と、答えたそうだ。わざわざ「大切な場面で記憶していた短歌が役に立った。歌の専門家として名誉なことであり、神がかった幸運である」と、物々しく書き残している。藤原伊通も、嘆願書に、どうでも良い経歴を書きつけて自画自賛していた。
一つ。東山、常在光院にある鐘突の鐘は菅原在兼が草案を作った。藤原行房が清書した文字を、鋳型にかたどる時に、現場監督が草案を取りだして、私に見せた。「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と書いてある。「韻を踏んでいますので、この百里というのは誤りでしょう」と言ってみた。監督は、「吉田先生にお見せして良かった。私の大手柄です」と、筆者である在兼の所へ伝えた。すると、「私の間違いだ。百里を数行に修正したい」と返事が返ってきた。しかし、数行というのもどうだろうか。数歩という意味だろうか。覚束ない。
一つ。大勢で比叡山の東塔、西塔、横川の三塔をお参りしたときの事である。横川のお堂の中に『竜華院』と書かれた古い額があった。「書道の名人、藤原佐理が書いたものか、藤原行成が書いたものか、どちらかが書いたものだと言われているのですが、はっきりしません」と、下っ端坊主がもったいぶって言うので、反射的に「行成が書いたものであれば、裏に説明書きがあるだろう。佐理が書いたものなら、裏は空白だ」と言ってやった。裏面はホコリまみれで蜘蛛の巣が張っていた。綺麗に掃除して、みんなで確認すると、「行成がいついつに書きました」と書いてあったので、その場にいた人は感心していた。
一つ。日本のナーランダで、道眼上人がありがたい話をしたときの事である。人の心を煩わせる八つの災いという話をしたのだが、その八つの災いを忘れたようで、「誰かこれを覚えている奴はいないか?」と言った。しかし、ここの弟子の中に覚えている奴はいなかった。草葉の陰から「かくかくしかじかのことですよ」と言ってやったら、上人に褒められた。
一つ。賢助僧正のお供として香水を聖なる玉に注ぐ儀式を見学していたときの事である。まだ儀式が終わっていないのに僧正は帰ってしまった。塀の外にも見あたらず、弟子の坊主たちを引き返らせて探させたけれども、「みんな同じような坊主の格好をしているので、探しても見つけられませんでした」と、かなり時間がかかった。「ああ、困ったことだ。あなたが探してきなさいと」言われて、私が引き返して、僧正をつれてきたのだった。
一つ。二月十五日の釈迦が入滅した日の事である。月の明るい夜更けに、千本釈迦堂にお参りに行き、裏口から入って、顔を隠してお経を聴いていた。いい匂いのする美少女が人を押しよけて入ってきて、私の膝に寄りかかって座るので、移り香があったらマズイと思って、よけてみた。それでも少女は私の方に寄り添ってくるので、仕方なく脱出した。そんなことがあった後に、昔からあるところで家政婦をしている女が、世間話のついでに、「あなたは色気の無いつまらない男ね。少しがっかりしました。あなたの冷たさに恨みを持っている女性がいるのですよ」などと言い出すので、「何のことだかさっぱりわかりません」とだけ答えておいて、そのままにしておいた。後で聞いたところ、あのお参りの夜、私の姿を草葉の陰から見て気になった人がいたらしく、お付きの女を変装させ、接近させたらしい。「タイミングを見計らって、言葉などをかけなさい。その様子を後で教えて。面白くなるわ」と言いつけて、私を試したのらしいのだ。
原文
御随身近友が自讃とて、七箇条書き止めたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その例を思ひて、自賛の事七つあり。
一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の辺にて、男の、馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし。暫し見給へ」とて立ち止りたるに、また、馬を馳す。止むる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。その詞の誤らざる事を人皆感ず。
一、当代未だ坊におはしましし比、万里小路殿御所なりしに、堀川大納言殿伺候し給ひし御曹子へ用ありて参りたりしに、論語の四・五・六の巻をくりひろげ給ひて、「たゞ今、御所にて、『紫の、朱奪ふことを悪む』と云ふ文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出だされぬなり。『なほよく引き見よ』と仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の巻のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あな嬉し」とて、もて参らせ給ひき。かほどの事は、児どもも常の事なれど、昔の人はいさゝかの事をもいみじく自賛したるなり。後鳥羽院の、御歌に、「袖と袂と、一首の中に悪しかりなんや」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、「『秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらん』と侍れば、何事か候ふべき」と申されたる事も、「時に当りて本歌を覚悟す。道の冥加なり、高運なり」など、ことことしく記し置かれ侍るなり。九条相国伊通公の款状にも、殊なる事なき題目をも書き載せて、自賛せられたり。
一、常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鋳型に模さんとせしに、奉行の入道、かの草を取り出でて見せ侍りしに、「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と云ふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里誤りか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。己れが高名なり」とて、筆者の許へ言ひ遣りたるに、「誤り侍りけり。数行と直さるべし」と返事侍りき。数行も如何なるべきにか。若し数歩の心か。おぼつかなし。
一、人あまた伴ひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行道の中、竜華院と書ける、古き額あり。「佐理・行成の間疑ひありて、未だ決せずと申し伝へたり」と、堂僧ことことしく申し侍りしを、「行成ならば、裏書あるべし。佐理ならば、裏書あるべからず」と言ひたりしに、裏は塵積り、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、各々見侍りしに、行成位署・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。
一、那蘭陀寺にて、道眼聖談義せしに、八災と云ふ事を忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化皆覚えざりしに、局の内より、「これこれにや」と言ひ出出したれば、いみじく感じ侍りき。
一、賢助僧正に伴ひて、加持香水を見侍りしに、未だ果てぬ程に、僧正帰り出で侍りしに、陳の外まで僧都見えず。法師どもを返して求めさするに、「同じ様なる大衆多くて、え求め逢はず」と言ひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、帰り入りて、やがて具して出でぬ。
一、二月十五日、月明き夜、うち更けて、千本の寺に詣でて、後ろより入りて、独り顔深く隠して聴聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人より殊なるが、分け入りて、膝に居かゝれば、匂ひなども移るばかりなれば、便あしと思ひて、摩り退きたるに、なほ居寄りて、同じ様なれば、立ちぬ。その後、ある御所様の古き女房の、そゞろごと言はれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉る事なんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍れね」と申して止みぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より、人の御覧じ知りて、候ふ女房を作り立てて出だし給ひて、「便よくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん」とて、謀り給ひけるとぞ。
注釈
御随身近友
中原近友。堀川・鳥羽天皇の時代の人。名ジョッキーで、神楽の舞手であった。
最勝光院
後白河法皇の中宮、建春門院の希望で建てられた御所。焼失し廃墟となった。位置は現在の三十三間堂のあたりだと言われる。
万里小路殿御所
冷泉万里小路内裏。もとは四条大納言隆親の家であった。当時の東宮御所。
堀川大納言
源具親。権大納言から大納言。後に内大臣。
後鳥羽院
後鳥羽天皇。
定家卿
藤原定家。歌人。古典学者。『新古今和歌集』『新勅撰集』の選者。日記に『明月記』がある。
九条相国伊通公
藤原伊通。太政大臣。
常在光院
菅原在兼。文章博士、左大辨、勘解由使長官、民部卿から参議へ。
行房朝臣
藤原行房。世尊寺流の能書の家系、勘解由小路家に生まれる。
佐理
藤原佐理。平安時代の能書家。三蹟の一人。
行成
藤原行成。平安時代中期の廷臣。多芸多才で名を馳せる。三蹟の一人。
那蘭陀寺
第百七十九段を参照。
道眼聖談義
第百七十九段を参照。
賢助僧正
醍醐寺の座主。護持僧で当時の一長者。