つれづれぐさ(下)

徒然草 第二百四十三段

現代語訳

 八歳の私は父に、「お父ちゃん。仏様とはどんなものなの」と聞いた。父は、「人間が仏になったのだよ」と答えた。続けて私は、「どんな方法で人は仏になるの」と聞いた。父は、「仏の教え学んでなるんだ」と答えた。続けて私は、「その仏に教えた仏は、誰から仏の教えを学んだんですか」と聞いた。父は、「前の仏の教えを学んで仏になったのだよ」と答えた。続けて私は、「それでは最初に教えた仏は、どんな仏だったのですか」と聞いてみた。父は、「空から降ってきたか、土から生えてきたのだろう」と答えて笑った。後日、父は、「息子に問い詰められて、答えに窮したよ」と、大勢に語って喜んでいた。

原文

 (つになりし年、父に問ひて云はく、「(ほとけ如何(いかなるものにか(そうらふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の(りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや(りけん。土よりや(きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人(しよにんに語りて興じき。

徒然草 第二百四十二段

現代語訳

 人が性懲りもなく苦楽の間を逡巡するのは、ひとえに苦しいことから逃れて楽をしたいからである。楽とは何かを求め執着することだ。執着への欲求はきりがない。その欲求は第一に名誉である。名誉には二種類ある。一つは社会的名誉で、もう一つは学問や芸術の誉れである。二つ目は性欲で、三つ目に食欲がある。他にも欲求はあるが、この三つに比べればたかが知れている。こうした欲求は自然の摂理と逆さまで、多くは大失態を招く。欲求など追求しないに限る。

原文

 とこしなへに違順(ゐじゆんに使はるゝ事は、ひとへに苦楽(くらくのためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲(げうよくする所、一つには名なり。名に二種あり。行跡(かうせきと才芸との(ほまれなり。二つには色欲(しきよく、三つには(あぢはひなり。(よろづの願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒(てんだう(さうより起りて、若干(そこばく(わづらひあり。求めざらんにには(かじ。

徒然草 第二百四十一段

現代語訳

 月が円を描くのは一瞬である。この欠けること光の如し。気にしない人は、一晩でこれ程までに変化する月の姿に気がつかないだろう。病気もまた満月と同じである。今の病状が続くのではない、死の瞬間が近づいてくるのだ。しかし、まだ病気の進行が遅く死にそうもない頃は、「こんな日がいつまでも続けばいい」と思いながら暮らしている。そして、元気なうちに多くのことを成し遂げて、落ち着いてから死に向かい合おうと考えていたりする。そうしているうちに、病気が悪化し臨終の間際で、何も成し遂げていないことに気がつく。死ぬのだから、何を言っても仕方ない。今までの堕落を後悔して、「もし一命を取り留めることができたら、昼夜を惜しまず、あれもこれも成し遂げよう」と反省するのだが、結局は危篤になり、取り乱しながら死ぬのである。世に生きる人は、大抵がこんなものだ。人はいつでも死を心に思わなければならない。

 やるべきことを成し遂げてから、静かな気持ちで死に向かい合おうと思えば、いつまでも願望が尽きない。一度しかない使い捨ての人生で、いったい何を成し遂げるのか。願望はすべて妄想である。「何かを成し遂げたい」と思ったら、妄想に取り憑かれているだけだと思い直して、全てを中止しなさい。人生を捨てて死に向かい合えば、煩わしさや、ノルマもなくなり、心身に平穏が訪れる。

原文

 望月(もちづき(まどかなる事は、(しばらくも(じゆうせず、やがて欠けぬ。心止めぬ人は、一夜(ひとよ(うちにさまで変る様の見えぬにやあらん。(やまひ(おもるも、住する(ひまなくして、死期(しご既に近し。されども、未だ病(きふならず、死に赴かざる程は、常住(じようじゆう平生(へいぜいの念に習ひて、(しやうの中に多くの事を(じやうじて後、閑かに道を(しゆせんと思ふ程に、病を受けて死門に(のぞむ時、所願一事(しよぐわんいちじ(じようせず。言ふかひなくて、年月(としつき懈怠(けだい(いて、この(たび、若し立ち直りて命を(またくせば、((に継ぎて、この事、かの事、(おこたらず(じやうじてんと願ひを(おこすらめど、やがて(おもりぬれば、我にもあらず取り乱して(てぬ。この類のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。

 所願を(じやうじて後、(いとまありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻(によげん(しやう(うちに、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想(まうざうなり。所願心に来たらば、妄信迷乱(まうじんめいらんすと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下(はうげして道に向ふ時、障りなく、所作(しよさなくて、心身(しんじん永く閑かなり。

徒然草 第二百四十段

現代語訳

 人目を避けて恋路を走り、仕掛けられたトラップを突破し、暗闇の中、逢瀬を求めて性懲りもなく恋人のもとへと馳せ参じてこそ、男の恋心は本物になり、忘れられない想い出にも昇華する。反対に、家族公認の見合い結婚をしたら、ただ間が悪いだけだ。

 生活に行き詰まった貧乏人の娘が、親の年ほど離れた老人僧侶や、得体の知れない田舎者の財産に目がくらみ、「貰ってくださるのなら」と呟けば、いつだって世話焼き役が登場する。「大変お似合いで」などと言って、結婚させてしまうのは悪い冗談としか思えない。こういうお二方は、ご結婚後、いったい何を話すのだろうか。長く辛い日々を過ごし、嶮しい困難を乗り越えてこそ、問わず語りも尽きないだろう。

 通常、見合い結婚は不満ばかりがつのる。美女と結婚しても、男の方に品がなく、みすぼらしく、しかも中年だったら、「自分のような男のために、この女は一生を棒に振るのか」と、かえってくだらない女に見えてくる。そんな女と向き合えば、自分の醜さをしみじみと思い知らされて、死にたくなるのであった。

 光源氏は、満開の梅の夜、小麦粉をまぶしたような月に誘われて、女の家の周りを彷徨った。恋人の家から帰る朝、垣根の露をはらって消えそうな月を見た。こんな話にドキドキしない男は、恋愛などしてはいけないのだ。

原文

 しのぶの浦の(あまの見る目も所せく、くらぶの山も(る人繁からんに、わりなく(かよはん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も(おほからめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ(ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。

 世にありわぶる女の、(げなき老法師(おいほふし、あやしの吾妻人(あづまびとなりとも、賑はゝしきにつきて、「(さそう水あらば」など云ふを、仲人(なかうど何方(いづかたも心にくき様に(ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち(づる(こと(にせん。年月のつらさをも、「((葉山(はやまの」なども相語らはんこそ、(きせぬ言の葉にてもあらめ。

 すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、(しな下り、見にくゝ、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心(おとりせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。

 梅の花かうばしき夜の朧月(おぼろづき(たたずみ、御垣(みかきが原の露分け出でん有明(ありあけの空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんには如かじ。

注釈

 (さそう水あらば

  「わびぬれば身を浮草の根に絶えて誘う水あらば住なんとぞ思ふ」『古今集』小野小町作 。

 ((葉山(はやま

  「筑波山端山繁山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり」『新古今集』より。

徒然草 第二百三十九段

現代語訳

 十五夜と十三夜は牡羊座が輝いている。その頃は空気が澄んでいるから月を観賞するのにもってこいだ。

原文

 八月(はつき十五日・九月(ながづき十三日は、婁宿(ろうしゆくなり。この宿(しゆく清明(せいめいなる(ゆゑに、月を(もてあそぶに良夜(りやうやとす。

注釈

 婁宿(ろうしゆく

  古代中国の天文学で、黄道に近い二十八星座を基準に月や太陽の位置を示した。これを二十八宿と呼び、「婁宿」は、その一つ。

徒然草 第二百三十八段

現代語訳

 随身の中原近友が自慢話だと断って書いた、七つの箇条書きがある。全て馬術の事で、くだらない話だ。そう言えば、私にも自慢話が七つある。

 一つ。大勢で花見に行ったときの事である。最勝光院の近くで馬に乗る男がいた。それを見て、「もう一度馬を走らせたら、馬が転んで落馬するでしょう。見てご覧なさい」と言って立ち止まった。再び馬が走ると、やはり引き倒してしまい、騎手は泥濘に墜落した。私の予言が的中したので、連中は、たまげていた。

 一つ。後醍醐天皇が皇太子だった頃の話である。万里小路の東宮御所に堀川大納言がご機嫌伺いにやって来て、待合室で待っていた。用事があって待合室に入ると、大納言は『論語』の四、五、六巻を広げて、「皇太子様が『世間では紫色ばかり重宝され、朱色を軽く見ているのが憎い』という話を読みたいと言うのだが、本を探しても見つからない。『もっとよく探してみろ』と言われて困っているところだ」と言った。私が「九巻の、そこにありますよ」と教えてあげたら、「とても助かった。ありがとう」と言って、その本を持って皇太子様のもとへと飛んで行った。子供でも知っているような事だけど、昔の人は、こんな些細な事も大げさに自慢したものだ。後鳥羽院が、「短歌に袖という単語と、袂という単語を一首の中に折り込むのは悪いことでしょうか」と、藤原定家に質問したことがあった。定家は、「古今集に『秋の草 薄が袂に見えてくる稲穂は手招きする袖のよう』という和歌が古今集にございますので、何ら問題はないでしょう」と、答えたそうだ。わざわざ「大切な場面で記憶していた短歌が役に立った。歌の専門家として名誉なことであり、神がかった幸運である」と、物々しく書き残している。藤原伊通も、嘆願書に、どうでも良い経歴を書きつけて自画自賛していた。

 一つ。東山、常在光院にある鐘突の鐘は菅原在兼が草案を作った。藤原行房が清書した文字を、鋳型にかたどる時に、現場監督が草案を取りだして、私に見せた。「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と書いてある。「韻を踏んでいますので、この百里というのは誤りでしょう」と言ってみた。監督は、「吉田先生にお見せして良かった。私の大手柄です」と、筆者である在兼の所へ伝えた。すると、「私の間違いだ。百里を数行に修正したい」と返事が返ってきた。しかし、数行というのもどうだろうか。数歩という意味だろうか。覚束ない。

 一つ。大勢で比叡山の東塔、西塔、横川の三塔をお参りしたときの事である。横川のお堂の中に『竜華院』と書かれた古い額があった。「書道の名人、藤原佐理が書いたものか、藤原行成が書いたものか、どちらかが書いたものだと言われているのですが、はっきりしません」と、下っ端坊主がもったいぶって言うので、反射的に「行成が書いたものであれば、裏に説明書きがあるだろう。佐理が書いたものなら、裏は空白だ」と言ってやった。裏面はホコリまみれで蜘蛛の巣が張っていた。綺麗に掃除して、みんなで確認すると、「行成がいついつに書きました」と書いてあったので、その場にいた人は感心していた。

 一つ。日本のナーランダで、道眼上人がありがたい話をしたときの事である。人の心を煩わせる八つの災いという話をしたのだが、その八つの災いを忘れたようで、「誰かこれを覚えている奴はいないか?」と言った。しかし、ここの弟子の中に覚えている奴はいなかった。草葉の陰から「かくかくしかじかのことですよ」と言ってやったら、上人に褒められた。

 一つ。賢助僧正のお供として香水を聖なる玉に注ぐ儀式を見学していたときの事である。まだ儀式が終わっていないのに僧正は帰ってしまった。塀の外にも見あたらず、弟子の坊主たちを引き返らせて探させたけれども、「みんな同じような坊主の格好をしているので、探しても見つけられませんでした」と、かなり時間がかかった。「ああ、困ったことだ。あなたが探してきなさいと」言われて、私が引き返して、僧正をつれてきたのだった。

 一つ。二月十五日の釈迦が入滅した日の事である。月の明るい夜更けに、千本釈迦堂にお参りに行き、裏口から入って、顔を隠してお経を聴いていた。いい匂いのする美少女が人を押しよけて入ってきて、私の膝に寄りかかって座るので、移り香があったらマズイと思って、よけてみた。それでも少女は私の方に寄り添ってくるので、仕方なく脱出した。そんなことがあった後に、昔からあるところで家政婦をしている女が、世間話のついでに、「あなたは色気の無いつまらない男ね。少しがっかりしました。あなたの冷たさに恨みを持っている女性がいるのですよ」などと言い出すので、「何のことだかさっぱりわかりません」とだけ答えておいて、そのままにしておいた。後で聞いたところ、あのお参りの夜、私の姿を草葉の陰から見て気になった人がいたらしく、お付きの女を変装させ、接近させたらしい。「タイミングを見計らって、言葉などをかけなさい。その様子を後で教えて。面白くなるわ」と言いつけて、私を試したのらしいのだ。

原文

 御随身近友(みずいじんちかともが自讃とて、七箇条書き止めたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その(ためしを思ひて、自賛の事七つあり。

 一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院(さいしようくわうゐんの辺にて、男の、馬を走らしむるを見て、「今一度馬を(するものならば、馬(たふれて、落つべし。暫し見給へ」とて立ち止りたるに、また、馬を(す。止むる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土(でいどの中に転び入る。その(ことばの誤らざる事を人皆感ず。

 一、当代未だ(ぼうにおはしましし比、万里小路(までのこうぢ殿御所なりしに、堀川大納言(ほりかはのだいなごん殿伺候(しこうし給ひし御曹子(みざうしへ用ありて参りたりしに、論語の四・五・六の巻をくりひろげ給ひて、「たゞ今、御所にて、『紫の、(あけ奪ふことを(にくむ』と云ふ(もんを御覧ぜられたき事ありて、御本(ごほんを御覧ずれども、御覧じ(だされぬなり。『なほよく引き見よ』と仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の巻のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あな嬉し」とて、もて参らせ給ひき。かほどの事は、(ちごどもも常の事なれど、昔の人はいさゝかの事をもいみじく自賛したるなり。後鳥羽院(ごとばのゐんの、御歌(みうたに、「(そで(たもとと、一首の中に(しかりなんや」と、定家卿(ていかのきやうに尋ね仰せられたるに、「『秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらん』と(はべれば、何事か候ふべき」と申されたる事も、「時に当りて本歌(ほんかを覚悟す。道の冥加(みやうがなり、高運なり」など、ことことしく記し置かれ侍るなり。九条相国伊通(くでうのしやうこくこれみち公の款状(くわんじやうにも、殊なる事なき題目をも書き載せて、自賛せられたり。

 一、常在光院(じやうざいくわうゐん(き鐘の銘は、在兼卿(ありかねのきやう(さうなり。行房朝臣(ゆきふさのあそん清書して、鋳型(いかたに模さんとせしに、奉行(ふぎやう入道(にふだう、かの(さうを取り出でて見せ侍りしに、「花の(ほか(ゆふべを送れば、声百里(はくり(きこゆ」と云ふ句あり。「陽唐(やうたうの韻と見ゆるに、百里誤りか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。己れが高名(かうみやうなり」とて、筆者の(もとへ言ひ遣りたるに、「誤り(はべりけり。数行と直さるべし」と返事(かへりこと侍りき。数行(すかうも如何なるべきにか。若し数歩(すほの心か。おぼつかなし。

 一、人あまた伴ひて、三塔巡礼の事(はべりしに、横川(よこかは常行道(じやうぎやうだうの中、竜華院(りやうげゐんと書ける、古き(がくあり。「佐理(さり行成(かうぜいの間疑ひありて、未だ決せずと申し伝へたり」と、堂僧ことことしく申し侍りしを、「行成(かうぜいならば、裏書あるべし。佐理(さりならば、裏書あるべからず」と言ひたりしに、裏は(ちり積り、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、各々見侍りしに、行成(かうぜい位署(ゐしよ名字(みやうじ・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に(る。

 一、那蘭陀寺(ならんだじにて、道眼聖談義(だうげんひじりだんぎせしに、八災(はちさいと云ふ事を忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化(しよけ皆覚えざりしに、(つぼねの内より、「これこれにや」と言ひ出(したれば、いみじく感じ(はべりき。

 一、賢助僧正(けんじよそうじやうに伴ひて、加持香水(かぢかうすいを見(はべりしに、未だ果てぬ程に、僧正帰り(で侍りしに、(ぢん(まで僧都(そうづ見えず。法師どもを返して求めさするに、「同じ様なる大衆(だいしゆ多くて、え求め逢はず」と言ひて、いと久しくて(でたりしを、「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、帰り(りて、やがて(して(でぬ。

 一、二月(きさらぎ十五日、月(あか(、うち更けて、千本(せんぼんの寺に(まうでて、(うしろより(りて、独り顔深く隠して聴聞(ちやうもん(はべりしに、(いうなる女の、姿・(にほひ、人より殊なるが、分け(りて、(ひざに居かゝれば、匂ひなども移るばかりなれば、便(びんあしと思ひて、(退(きたるに、なほ(寄りて、同じ(さまなれば、立ちぬ。その後、ある御所様の古き女房の、そゞろごと言はれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉る事なんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍れね」と申して止みぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞(ちやうもんの夜、御局(みつぼねの内より、人の御覧じ知りて、候ふ女房を作り立てて(だし給ひて、「便(びんよくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん」とて、(はかり給ひけるとぞ。

注釈

 御随身近友(みずいじんちかとも

  中原近友。堀川・鳥羽天皇の時代の人。名ジョッキーで、神楽の舞手であった。

 最勝光院(さいしようくわうゐん

  後白河法皇の中宮、建春門院の希望で建てられた御所。焼失し廃墟となった。位置は現在の三十三間堂のあたりだと言われる。

 万里小路(までのこうぢ殿御所

  冷泉万里小路内裏。もとは四条大納言隆親の家であった。当時の東宮御所。

 堀川大納言(ほりかはのだいなごん

  源具親。権大納言から大納言。後に内大臣。

 後鳥羽院(ごとばのゐん

  後鳥羽天皇。

 定家卿(ていかのきやう

  藤原定家。歌人。古典学者。『新古今和歌集』『新勅撰集』の選者。日記に『明月記』がある。

 九条相国伊通(くでうのしやうこくこれみち

  藤原伊通。太政大臣。

 常在光院(じやうざいくわうゐん

  菅原在兼。文章博士、左大辨、勘解由使長官、民部卿から参議へ。

 行房朝臣(ゆきふさのあそん

  藤原行房。世尊寺流の能書の家系、勘解由小路家に生まれる。

 佐理(さり

  藤原佐理(すけまさ。平安時代の能書家。三蹟の一人。

 行成(かうぜい

  藤原行成。平安時代中期の廷臣。多芸多才で名を馳せる。三蹟の一人。

 那蘭陀寺(ならんだじ

  第百七十九段を参照。

 道眼聖談義(だうげんひじりだんぎ

  第百七十九段を参照。

 賢助僧正(けんじよそうじやう

  醍醐寺の座主。護持僧で当時の一長者。

徒然草 第二百三十七段

現代語訳

 道具箱の蓋の上に物を置く際には、縦に向けたり横に向けたり、物によってそれぞれだ。巻物は、溝に向かって縦に置き、組木の間から紐を通して結ぶ。硯も縦に置くと筆が転がらなくて良い」と三条実重が言っていた。

 勘解由小路家の歴代の能書家達は、間違っても硯を縦置きにしなかった。決まって横置きにしていた。

原文

 柳筥(やないばこ(うる物は、縦様(たてさま横様(よこさま、物によるべきにや。「巻物(まきものなどは、縦様に置きて、木の(あはひより紙ひねりを通して、(い附く。(すずりも、縦様に置きたる、筆転ばず、よし」と、三条(さんでうの右大臣殿仰せられき。

 勘解由小路(かでのこうぢの家の能書(のうじよの人々は、仮にも縦様に置かるゝ事なし。必ず、横様に(ゑられ(はべりき。

注釈

 柳筥(やないばこ

  柳の組木細工で作った箱。二つの足を台に付け、蓋には、烏帽子、冠、お経、書物、硯、筆を載せた。三角に切った柳の木材を紐で結んで作ったのでギザギザの溝がある。

 三条(さんでうの右大臣殿仰

  右大臣は内大臣の誤りで、三条実重か。太政大臣。その息子、公茂との説もある。

 勘解由小路(かでのこうぢの家

  書能家、藤原行成の家系。

徒然草 第二百三十六段

現代語訳

 京都の亀岡にも出雲がある。出雲大社の分霊を祀った立派な神社だ。志田の何とかという人の領土で、秋になると、「出雲にお参り下さい。そばがきをご馳走します」と言って、聖海上人の他、大勢を連れ出して、めいめい拝み、その信仰心は相当なものだった。

 神前にある魔除けの獅子と狛犬が後ろを向いて背中合わせに立っていたので、聖海上人は非常に感動した。「何と素晴らしいお姿か。この獅子の立ち方は尋常ではない。何か深い由縁があるのでしょう」と、ボロボロ泣き出した。「皆さん、この恍惚たるお姿を見て鳥肌が立ちませんか。何も感じないのは非道いです」と言うので、一同も不審に思い、「本当に不思議な獅子狛犬だ」とか、「都に帰って土産話にしよう」などと言い出した。上人は、この獅子狛犬についてもっと詳しく知りたくなった。そこで、年配のいかにも詳しく知っていそうな神主を呼んで、「この神社の獅子の立ち方は、私などには計り知れない由縁があるとお見受けしました。是非教えて下さい」と質問した。神主は、「あの獅子狛犬ですか。近所の悪ガキが悪戯したのですよ。困ったガキどもだ」と言いながら、もとの向きに戻して立ち去った。果たして、聖海上人の涙は蒸発したのだった。

原文

 丹波(たんば出雲(いづもと云ふ所あり。大社(おほやしろを移して、めでたく(つくれり。しだの(なにがしとかやしる所なれば、秋の(ころ聖海上人(しやうかいしやうにん、その他も人数多(あまた(さそひて、「いざ給へ、出雲(をがみに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信起したり。

 御前(おまへなる獅子(しし狛犬(こまいぬ(そむきて、(うしろさまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き(ゆゑあらん」と涙ぐみて、「いかに殿原(とのばら殊勝(しゆしようの事は御覧じ(とがめずや。無下(むげなり」と言へば、各々(あやしみて、「まことに他に(ことなりけり」、「(みやこのつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官(じんぐわんを呼びて、「この御社(みやしろ獅子(ししの立てられ様、定めて習ひある事に(はべらん。ちと(うけたまはらばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの(つかまつりける、奇怪(きくわいに候う事なり」とて、さし寄りて、((なほして、(にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

注釈

 丹波(たんば出雲(いづも

  現在の京都府亀岡市千歳町出雲。出雲神社がある。

 聖海上人(しやうかいしやうにん

  伝未詳。

徒然草 第二百三十五段

現代語訳

 主人がある家には、他人が勝手に入って来ない。主人のない家には通りすがりの人がドカドカ押し入る。また、人の気配が無いので、狐や梟のような野生動物も我が物顔で棲み着く。「こだま」などという「もののけ」が出現するのも当然だろう。

 同じく、鏡には色や形がないから、全ての物体を映像にする。もし鏡に色や形があれば、何も反射しないだろう。

 大気は空っぽで、何でも吸い取る。我々の心も、幾つもの妄想が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。もしかしたら、心の中身は空っぽなのかも知れない。家に主人がいるように、心にも主人がいたら、妄想が入り込む余地もないだろう。

原文

 主ある家には、すゞろなる人、心のまゝに(り来る事なし。主なき所には、道行人(みちいきびと(みだりに立ち入り、(きつね(ふくろふやうの物も、人気(ひとげ(かれねば、所得(ところえに入り(み、木霊(こだまなど云ふ、けしからぬ形も(あらはるゝものなり。

 また、鏡には、色・(かたちなき(ゆゑに、(よろづ(かげ(きたりて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。

 虚空(こくうよく物を(る。我等が心に念々のほしきまゝに(きたり浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の(うちに、若干(そこばくの事は((きたらざらまし。

徒然草 第二百三十四段

現代語訳

 何かを尋ねる人に、「まさか知らないわけがない、真に受けて本当のことを言うのも馬鹿馬鹿しい」と思うからだろうか、相手を惑わす答え方をするのは悪いことだ。相手は、知っていることでも、もっと知りたいと思って尋ねているのかも知れない。また、本当に知らない人がいないとは断言できない。だから、屁理屈をこねずに正確に答えれば、信頼を得られるであろう。

 まだ誰も知らない事件を自分だけ聞きつけて、「あの人は、あきれた人だ」などと省略して言うのも良くない。相手は何の事だかさっぱり分からないから、「何の事ですか?」と、聞き返す羽目になる。有名な話だとしても、偶然に聞き漏らすこともあるのだから、正確に物事を伝えて何が悪いのか。

 このような言葉足らずは、頭も足りない人がすることだ。

原文

 人の、物を問ひたるに、(らずしもあらじ、ありのまゝに言はんはをこがましとにや、心(まどはすやうに返事(かへりごとしたる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うらゝかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。

 人は(いまだ聞き及ばぬ事を、我が知りたるまゝに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言ひ遣りたれば、「如何(いかなる事のあるにか」と、押し返し問ひに(るこそ、心づきなけれ。世に(りぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに(げ遣りたらん、(しかるべきことかは。

 かやうの事は、物馴(ものなれぬ人のある事なり。