徒然草　第九十二段

現代語訳

　或人が、弓の稽古で、二本の矢をセットして的に対峙した。すると師匠が「素人が二本の矢を持つんじゃない。次の矢があるからと、一本目の矢に気合いが入らなくなるじゃねえか。いつでも、一本の矢が的中するように精神統一をせんか」と指導した。師匠の手前、わざと最初の一本を無駄遣いする人もいないだろう。しかし、無意識に怠け精神は目を覚ます。師匠はその事を知っているのだ。この戒めは、何事にも同様である。

　悟りの道を歩む者は、夜には翌朝の修行を思い、朝には夜の修行を想像する。同じ事を繰り返し、「次はしっかり修行しよう」と思い直したりもする。そんな体たらくでは、この一瞬の中に、己の怠けの精神が目覚めていることを自覚しないだろう。この瞬間を自主的に生きるのは、何と難しい事であろうか。

原文

　或（あ）人、弓射（い）る事を習（なら）ふに、諸矢（もろや）をたばさみて的（まと）に向（むか）ふ。師の云（い）はく、「初心（しよしん）の人、二つの矢を持（も）つ事なかれ。後（のち）の矢を頼（たの）みて、始（はじ）めの矢に等閑（なほざり）の心あり。毎度、たゞ、得失（とくしつ）なく、この一矢（ひとや）に定むべしと思へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一（ひと）つをおろかにせんと思はんや。懈怠（けだい）の心、みづから知（し）らずといへども、師これを知（し）る。この戒め、万事にわたるべし。

　道を学する人、夕（ゆふべ）には朝（あした）あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重（かさ）ねてねんごろに修（しゆ）せんことを期（ご）す。況（いは）んや、一刹那（せつな）の中において、懈怠（けだい）の心ある事を知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直（ただ）ちにする事の甚（はなは）だ難（かた）き。

注釈

　諸矢（もろや）

　　甲矢（はや）と乙矢（おとや）といい、二本の矢を腕に挟み持つこと。

　等閑（なほざり）の心

　　いい加減な気持ち。

　懈怠（けだい）の心

　　怠けの精神。