現代語訳
ある人が清水寺に、お詣りに出かけた。一緒についてきた年寄りの尼さんが道すがら、「くさめ、くさめ」と言い続けてやめない。「婆さんや、何をそんなにのたまわっているのだ」と尋ねても、老いた尼さんは返事もせず、気がふれたままだ。しつこく尋ねられると、老いた尼さんも逆上して、「ええい、うるさい。答えるのも面倒くさい。くしゃみをしたときに、このまじないをしなければ、死んでしまうと言うではないか。あたしが世話した坊ちゃまは賢くて、比叡山で勉強しているんだ。坊ちゃまが、今くしゃみをしたかも知れないと思うと気が気でないから、こうやってまじないをしているのだ」と言った。
殊勝なまでの心入れをする変人がいたもんだ。
原文
或人 、清水 へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前 、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応へもせず、なほ言ひ止 まざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて「やゝ。鼻 ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君 の、比叡山 に児 にておはしますが、たゞ今もや鼻 ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。
有 り難 き志なりけんかし。
注釈
京都市東山区にある、音羽山清水寺。
くさめ
くしゃみをしたときに唱える、まじないの呪文。「
乳母が養育した貴族のご子息。
比叡山延暦寺。