現代語訳
「葵祭りが終わってしまえば、葵の葉はもういらない」と、ある人が、簾に懸けてあるのを全部捨ててしまった。味気ないことだと思ったが、比較的まともな人がやった事なので「そんなものか」と納得しきれないでいた。しかし、周防内侍は、
逢う日まで葵を眺めて暮らしても別れが枯れて時が過ぎ去る
と歌っていた。「簾に懸けた葵が枯れるのを詠んだ」と彼女の歌集に書いてある。古い歌の説明書きに「枯れた葵に結んで渡した」とも書いてあった。それから『枕草子』に、「過ぎ去った郷愁と言えば、枯れてしまった葵」というくだりがある。何となく枯れ葉に心を奪われたのだろう。鴨長明が書いた『四季物語』にも「祭が終わっても上等な簾に葵が懸かったままだ」とある。自然に枯れていくだけでも淋しくなるのに、何事も無かったかのように捨てたとしたら罪深い。
貴人の寝室に懸かっているくす玉がある。九月九日、重陽の節句の日に菊に取り替えるから、五月五日に匂い玉に懸けた菖蒲は、菊の季節までそのままにしておくのだろう。中宮、研子の死後、古ぼけた寝室に菖蒲とくす玉が懸かっていたのを見て、「中宮が生きていた頃は、くす玉に懸けた菖蒲ですが、季節外れの今は涙の玉に懸け換えて、泣きじゃくります」と、弁乳母が詠めば、「菖蒲は今でも匂っているのに、この寝室はもぬけの殻だわ」と、江侍従が返したそうだ。
原文
「祭過ぎぬれば、後の葵不用なり」とて、或人の、御簾なるを皆取らせられ侍りしが、色もなく覚え侍りしを、よき人のし給ふ事なれば、さるべきにやと思ひしかど、周防内侍が、
かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉なりけり
と詠めるも、母屋の御簾に葵の懸りたる枯葉を詠めるよし、家の集に書けり。古き歌の詞書に、「枯れたる葵にさして遣はしける」とも侍り。枕草子にも、「来しかた恋しき物、枯れたる葵」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひ寄りたれ。鴨長明が四季物語にも、「玉垂に後の葵は留りけり」とぞ書ける。己れと枯るゝだにこそあるを、名残なく、いかゞ取り捨つべき。
御帳に懸れる薬玉も、九月九日、菊に取り替へらるゝといへば、菖蒲は菊の折までもあるべきにこそ。枇杷皇太后宮かくれ給ひて後、古き御帳の内に、菖蒲・薬玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「折ならぬ音をなほぞかけつる」と辨の乳母の言へる返事に、「あやめの草はありながら」とも、江侍従が詠みしぞかし。
注釈
祭
言うまでもなく、下賀茂神社の葵祭。
周防内侍
平仲子。歌人。後冷泉、白河、堀河の三代にわたって宮中に仕えた。歌集に『周防内侍』がある。
枕草子
清少納言が書いた随筆。中に「過ぎにしかた恋しきもの。枯れたる葵」とある。
鴨長明
鎌倉後期の歌人。『方丈記』『発心集』『鴨長明集』『無名抄』などの著者。
四季物語
鴨長明の著書だと伝えられているが定かではない。一月から十二月までの行事や四季の移ろいについて書かれてある。
玉垂
美しい簾。和歌の上の句で、下の句は「かれても通へ人の面影」で、和泉式部の作と伝えられているが定かでない。
薬玉
五月五日の端午の節句に、浮上を払い、邪気を避け、長寿を願う為に簾や柱にかけた玉。
枇杷皇太后宮
三条天皇の中宮、研子。
辨の乳母
藤原順時の娘。歌人。歌集に『辨乳母集』がある。
江侍従
父は文章博士、大江匡衡、母は赤染衛門。歌人。勅撰集に十首ほど入集している。