おりにかなう助け

徒然草 第百八十八段

現代語訳

 ある人が息子を坊さんにさせようと思い、「勉強をして世を理解し、有り難い話の語り部にでもなって、ご飯を食べなさい」と言った。息子は言われたとおり、有り難い話の語り部になるべく、最初に乗馬スクールへ通った。「車や運転手を持つことができない身分で、講演を依頼され、馬で迎えが来た時に、尻が桃のようにフラフラしていたら恥かしい」と思ったからだ。次に「講演の二次会で、酒を勧められた際に、坊主が何の芸もできなかったら、高い金を払っているパトロンも情けない気持ちになるだろう」と思って、カラオケ教室に通った。この二つの芸が熟練の域に達すると、もっと極めたくなり、ますます修行に勤しんだ。そのうちに、有り難い話の勉強をする時間もなくなって、定年を迎えることになった。

 この坊さんだけでなく、世の中の人は、だいたいこんなものである。若い頃は様々な分野に精力旺盛で、「立派になって未来を切り開き、芸達者でもありたい」と、輝かしいビジョンを描いている。けれども、理想を掲げるばかりで、実際は目先の事を片付けるのに精一杯になり、時間だけは容赦なく過ぎていく。結局、何もできないまま、気がついた頃には老人になっていたりする。何かの名人にもなれず、思い描いた未来は瓦解し、後悔をしても取り返しようもない年齢だ。衰弱とは、坂道を滑り降りる自転車と同じである。

 だから、一生のうちにすべきことを見つけ、よく考え、一番大切だと思うことを決め、他は全部捨ててしまおう。一つに没頭するのだ。一日、一時間の間に、仕事はいくらでも増えてくる。少しでも役立ちそうなものにだけ手を付けて、他は捨てるしかない。大事なことだけ急いでやるに越したことはない。どれもこれもと溜め込めば、八方塞がりになるだけだ。

 例えば、オセロをする人が、一手でも有利になるよう、相手の先手を取り、利益の少ない場所は捨て、大きな利益を得るのと同じ事だ。三つのコマを捨て、十のコマを増やすのは簡単なことである。しかし、十のコマを捨てて十一の利益を拾うことは至難の業だ。一コマでも有利な場所に力を注がなくてはならないのだが、十コマまで増えてしまうと惜しく感じて、もっと多く増やせる場所へと切り替えられなくなる。「これも捨てないで、あれも取ろう」などと思っているうちに、あれもこれも無くなってしまうのが世の常だ。

 京都の住人が、東山に急用があり、すでに到着していたとしても、西山に行った方が利益があると気がついたら、さっさと門を出て西山に行くべきだ。「折角ここまで来たのだから、用事を済ませ、あれを言っておこう。日取りも決まってないから、西山のことは帰ってから考えよう」と考えるから、一時の面倒が、一生の怠惰となるのだ。しっかり用心すべし。

 一つの事を追及しようと思ったら、他が駄目でも悩む必要は無い。他人に馬鹿にされても気にするな。全てを犠牲にしないと、一つの事をやり遂げられないのだ。ある集会で、「ますほの薄・まそほの薄というのがある。渡辺橋に住む聖人が、このことをよく知っている」と言う話題になった。その場にいた登蓮法師が聞いて、雨が降るにも関わらず、「雨合羽や傘はありませんか? 貸して下さい。その薄のことを聞くために渡辺橋の聖人の所へ行ってきます」と言った。「随分せっかちですな。雨が止んでからにすればよいではないか」と、皆で説得したところ、登蓮法師は、「とんでもないことを言いなさるな。人の命は雨上がりを待たない。私が死に、聖人が亡くなったら、薄のことを聞けなくなってしまう」と言ったきり、一目散に飛び出して、薄の話を伝授された。あり得ないぐらいに貴重な話だ。「出前迅速、商売繁盛」と『論語』にも書いてある。この薄の話を知りたいように、ある人の息子も、世を理解することだけを考えねばならなかったのだ。

原文

 (ある者、子を法師になして、「学問して因果(いんぐわ(ことわりをも知り、説経(せつきやうなどして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教のまゝに、説経師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿(こし・車は持たぬ身の、導師(だうし(しやうぜられん時、馬など(むかへにおこせたらんに、桃尻(ももじりにて落ちなんは、心(かるべしと思ひけり。次に、仏事の(のち、酒など(すすむる事あらんに、法師の無下(むげ(のうなきは、檀那(だんなすさまじく思ふべしとて、早歌(はやうたといふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう(さかひ(りければ、いよいよよくしたく覚えて(たしなみけるほどに、説経習うべき隙なくて、年寄りにけり。

 この法師のみにもあらず、世間(せけんの人、なべて、この事あり。若きほどは、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも(じやうじ、(のうをも(き、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心には懸けながら、世を長閑(のどかに思ひて打ち怠りつゝ、先づ、差し当りたる、目の前の事のみに紛れて、月日を送れば、事々(す事なくして、身は老いぬ。終に、物の上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、(ゆれども取り返さるゝ(よはひならねば、走りて坂を下る(の如くに衰へ行く。

 されば、一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ(くらべて、第一の事を案じ定めて、その(ほかは思ひ捨てて、一事(いちじを励むべし。一日の(うち、一時の中にも、数多(あまたの事の(きたらん中に、少しも(やくの勝らん事を営みて、その(ほかをば打ち捨てて、大事を急ぐべきなり。何方(いづかたをも捨てじと心に取り持ちては、一事も(るべからず。

 例へば、(を打つ人、一手(ひとて(いたづらにせず、人に先立ちて、小を捨て大に就くが如し。それにとりて、三つの石を捨てて、十の石に就くことは(やすし。十を捨てて、十一に就くことは難し。一つなりとも勝らん(かたへこそ就くべきを、十まで(りぬれば、惜しく覚えて、多く勝らぬ石には換へ難し。これをも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。

 京に住む人、急ぎて東山(ひがしやまに用ありて、既に行き着きたりとも、西山(にしやまに行きてその(やく勝るべき事を思ひ得たらば、(かどより帰りて西山へ行くべきなり。「此所まで来着きぬれば、この事をば先づ言ひてん。日を指さぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時の懈怠(けだい、即ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。

 一事を必ず(さんと思はば、他の事の破るゝをも傷むべからず、人の(あざけりをも(づべからず。万事に換へずしては、(いつの大事成るべからず。人の数多ありける中にて、或者、「ますほの(すすき、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺(わたのべ(ひじり、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮法師(とうれんほふし、その座に(はべりけるが、聞きて、雨の降りけるに、「(みの(かさやある。貸し給へ。かの(すすきの事(ならひに、渡辺の(ひじりのがり(たづ(まからん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下(むげの事をも(おほせらるゝものかな。人の命は雨の晴れ(をも待つものかは。我も死に、聖も(せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り(でて行きつゝ、習ひ(はべりにけりと申し伝へたるこそ、ゆゝしく、有難う(おぼゆれ。「((ときは、(すなはち功あり」とぞ、論語と云ふ(ふみにも(はべるなる。この(すすきをいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁(いんねんをぞ思ふべかりける。

注釈

 東山(ひがしやま西山(にしやま

  京都の東部から西部一帯の丘陵。

 渡辺(わたのべ(ひじり

  現在の大阪府東区渡辺橋の近くに住む隠遁者。

 登蓮法師(とうれんほふし

  伝未詳。在家の沙弥で、『登蓮法師集』『登蓮法師恋百首』がある。『詞花集』以下の勅撰集に入集している。

徒然草 第百八十七段

現代語訳

 プロフェッショナルは、例えヘッポコでも、器用なアマチュアと比べれば、絶対に優れている。油断せず、万全に備え、対象を軽く見ることはない。我流とは違うのだ。

 アートやビジネスに限らず、日常生活や気配りは、不器用でも控えめなら問題ない。反対に、器用でも、気ままだと、失敗を招く。

原文

 (よろづの道の人、たとひ不堪(ふかんなりといへども、堪能(かんのう非家(ひかの人に並ぶ時、必ず勝る事は、(たゆみなく慎みて軽々(かるがるしくせぬと、偏へに自由なるとの等しからぬなり。

 芸能・所作(しよさのみにあらず、大方(おほかた振舞(ふるまひ・心(づかひも、(おろかにして慎めるは、(とく(もとなり。(たくみにして欲しきまゝなるは、失の(もとなり。

徒然草 第百七十六段

現代語訳

 清涼殿の黒戸御所は、光孝天皇が即位した後、かって一般人だった時の自炊生活を忘れないように、いつでも炊事ができるようにした場所である。薪で煤けていたので、黒戸御所と呼ぶのである。

原文

 黒戸(くろどは、小松御門(こまつのみかど、位に即かせ給ひて、昔、たゞ(ひとにておはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に(いとなませ給ひける(なり。御薪(みかまき(すすけたれば、黒戸と言ふとぞ。

注釈

 黒戸(くろど

  清涼殿の北廂から弘徽殿までの西向きの戸。ここを黒戸の御所と呼ぶ。

 小松御門(こまつのみかど

  光孝天皇。仁明天皇の第三皇子。

徒然草 第百七十五段

現代語訳

 世間には、理解に苦しむことが多い。何かある度に、「まずは一杯」と、無理に酒を飲ませて喜ぶ風習は、どういう事か理解できない。飲まされる側は、嫌そうにしかめ面をし、人目を見計らって盃の中身を捨てて逃げる予定だ。それを捕まえて引き止め、むやみに飲ませると、育ちの良い人でも、たちまち乱暴者に変身して暴れ出す。健康な人でも、目の前で瀕死の重体になり、前後不覚に倒れる。これが祝いの席だったら大惨事だ。翌日は二日酔いで、食欲が無くなり、うめき声を上げながら寝込む。生きた心地もせず、記憶は断片的に無い。大切な予定も全てキャンセルし、生活にも支障をきたす。こんなに非道い目に遭わせるのは、思いやりが無く、無礼でもある。辛い目に遭わされた本人も、恨みと妬みでいっぱいだろう。もし、これが余所の国の風習で、人づてに聞いたとしたら、異文化の不気味さに驚くに違いない。

 他人事だとしても、酔っぱらいは見ていて嫌になる。用心深く、真面目そうな人でも、酔えば、馬鹿のように笑い出し、大声で喋り散らす。カツラを乱し、ネクタイを弛め、靴下を脱いでスネ毛を風にそよがせる。普段の本人からは想像できない醜態だ。女が酔えば、前髪をバサリとかき上げ、恥じらいもなく大口で笑い、男の盃を持つ手にまとわりつく。もっと非道くなると、男に食べ物をくわえさせ、自分もそれを食うのだから、汚らわしい。そして、声が潰れるまで歌い、踊るうちに、ヨボヨボな坊主が呼び出され、黒くて汚らしい肩をはだけて、ヨロヨロと身体をよじって踊る。この見るに堪えない余興を喜ぶ人達が、鬱陶しく憎たらしい。それから、自分がいかに人格者であるか、端から聞きけば失笑も辞さない話を演説し、仕舞いには泣き出す始末である。家来達は罵倒し合い、小競り合いを始め出す。恐ろしさに呆然となる。酔えば恥を晒し、迷惑をかける。挙げ句の果てには、いけないものを取ろうとして窓から落ちたり、車やプラットフォームから転げ落ちて大怪我をする。乗り物に乗らない人は、大通りを千鳥足で歩き、塀や門の下に吐瀉物を撒き散らす。年を取った坊さんがヨレヨレの袈裟を身にまとい、子供に意味不明な話をしてよろめく姿は、悲惨でもある。こんな涙ぐましい行為が死後の世界に役立つのであれば仕方ない。しかし、この世の酒は、事故を招き、財産を奪い、身体を貪るのである。「酒は百薬の長」と言うが、多くの病気は酒が原因だ。また、「酔うと嫌なことを忘れる」と言うが、ただ単に悪酔いしているだけにも見られる。酒は脳味噌を溶かし、気化したアルコールは業火となる。邪悪な心が広がって、法を犯し、死後には地獄に堕ちる。「酒を手にして人に飲ませれば、ミミズやムカデに五百度生まれ変わる」と、仏は説いている。

 以上、酒を飲むとろくな事がないのだが、やっぱり酒を捨てるのは、もったいない。月見酒、雪見酒、花見酒。思う存分語り合って盃をやりとりするのは、至高の喜びだ。何もすることがない日に、友が現れ一席を設けるのも楽しみの一つだ。馴れ馴れしくできない人が簾の向こうから、果物と一緒にお酒を優雅に振る舞ってくれたとしたら感激物だ。冬の狭い場所で、火を囲み差し向かいで熱燗をやるのも一興だ。旅先で「何かつまむ物があったら」と言いながら飲むのも、さっぱりしている。無礼講で、「もっと飲みなさい。お酒が減っていませんね」と言ってくれるのは、ありがたい。気になる人が酒好きで飲み明かせるのは、楽しい。

 ともあれ、酒飲みに罪はない。ヘベレケに酔っぱらって野営した朝、家主が引き戸を開けると、寝ぼけ眼で飛び起きる。髪を乱したまま、着衣を正す間もなく逃げる。裾をまくった後ろ姿や、細い足のスネ毛など、見ていて楽しく、いかにも酔っぱらいだ。

原文

 世には、心(ぬ事の多きなり。ともある毎には、まづ、酒を(すすめて、(ひ飲ませたるを(きようとする事、如何なる故とも心得ず。飲む人の、顔いと(へ難げに(まゆ(ひそめ、人目を測りて捨てんとし、(にげげんとするを、(とらへて引き(とどめて、すゞろに飲ませつれば、うるはしき人も、忽ちに狂人(きやうじんとなりてをこがましく、息災(そくさいなる人も、目の前に大事の病者(びやうじやとなりて、前後も(らず(たふれ伏す。(いはふべき日などは、あさましかりぬべし。(くる日まで頭痛(かしらいたく、物(はず、によひ(し、(しやう(へだてたるやうにして、昨日(きのふの事(おぼえず、(おほやけ(わたくしの大事を欠きて、(わづらひとなる。人をしてかゝる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にも(そむけり。かく(からき目に(ひたらん人、ねたく、口惜(くちをしと思はざらんや。人の国にかゝる習ひあンなりと、これらになき人事(ひとごとにて伝へ聞きたらんは、あやしく、不思議に覚えぬべし。

 人の上にて見たるだに、心(し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひのゝしり、(ことば多く、烏帽子(えぼし歪み、(ひも(はずし、(はぎ高く掲げて、用意なき気色(けしき、日来の人とも覚えず。女は、額髪(ひたひがみ(れらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちさゝげてうち笑ひ、(さかづき持てる手に取り付き、よからぬ人は、(さかな取りて、口にさし当て、自らも食ひたる、(さまあし。声の限り(して、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し(されて、黒く穢き身を肩抜ぎて、目も当てられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましく、憎し。(あるはまた、我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひ聞かせ、或は(ひ泣きし、(しもざまの人は、罵下(り合ひ、(いさかひて、あさましく、恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、果は、許さぬ物ども押し取りて、(えんより落ち、馬・車より落ちて、過しつ。物にも乗らぬ際は、大路(おほちをよろぼひ行きて、築泥・門の下などに向きて、えも言はぬ事どもし散らし、年老い、袈裟(けさ掛けたる法師(ほふしの、小童(こわらは(かた(おさへて、聞えぬ事ども言ひつゝよろめきたる、いとかはゆし。かゝる事をしても、この世も(のちの世も(やくあるべきわざならば、いかゞはせん、この世には過ち多く、(たからを失ひ、病をまうく。百薬の(ちようとはいへど、(よろづの病は酒よりこそ起れ。(うれへ忘るといへど、(ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ(でて泣くめる。後の世は、人の智恵を失ひ、善根(ぜんこんを焼くこと火の如くして、悪を増し、万の(かいを破りて、地獄に堕つべし。「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生(ごひやくしやうが間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。

 かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の(あした、花の本にても、心長閑(のどかに物語して、(さかづき(だしたる、万の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの(ほかに友の(り来て、とり(おこなひたるも、心慰む。馴れ馴れしからぬあたりの御簾(みす(うちより、御果物(くだもの御酒(みきなど、よきやうなる気はひしてさし(だされたる、いとよし。冬、(せばき所にて、火にて物(りなどして、(へだてなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。旅の仮屋(かりや、野山などにて、「御肴(みさかな何がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるも、をかし。いたう痛む人の、(ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「今ひとつ。(うへ少し」などのたまはせたるも、うれし。近づかまほしき人の、上戸(じやうごにて、ひしひしと(れぬる、またうれし。

 さは言へど、上戸(じやうごは、をかしく、罪許さるゝ者なり。(ひくたびれて朝寝(あさいしたる所を、(あるじの引き(けたるに、(まどひて、惚れたる顔ながら、細き(もとどり差し(だし、物も着あへず(いだ(ち、ひきしろひて(ぐる、掻取(かいとり姿の後ろ手、毛(ひたる細脛(ほそはぎのほど、をかしく、つきづきし。

徒然草 第百七十四段

現代語訳

 スズメ狩りに向いている犬をキジ狩りに使うと、再びスズメ狩りに使えなくなると言う。大物を知ってしまうと小物に目もくれなくなるという摂理は、もっともだ。世間には、やることが沢山あるが、仏の道に身をゆだねることよりも心が満たされることはない。これは、一生で一番大切なことである。いったん仏の道に足を踏み入れたら、この道を歩く人は、何もかも捨てることができ、何かを始めることもない。どんな阿呆だとしても、賢いワンちゃんの志に劣ることがあろうか。

原文

 小鷹(こたかによき犬、大鷹(おほたかに使ひぬれば、小鷹にわろくなるといふ。大に(き小を捨つる(ことわり、まことにしかなり。人事(にんじ多かる中に、道を楽しぶより気味(きみ深きはなし。これ、(まことの大事なり。一度、道を聞きて、これに志さん人、いづれのわざか(すたれざらん、何事をか営まん。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らんや。

徒然草 第百七十二段

現代語訳

 若者は血の気が多く、心がモヤモヤしていて、何にでも発情する。危険な遊びを好み、いつ壊れてもおかしくないのは、転がっていく卵のようだ。綺麗な姉ちゃんに狂って、貯金を使い果たしたかと思えば、それも捨て、托鉢の真似事などをしだす。有り余った体力の捌け口に喧嘩ばかりして、プライドだけは高く、羨んだり、好んだり、気まぐれで、浮気ばかりしている。そして、性愛に溺れ、人情に脆い。好き勝手に人生を歩み、犬死にした英雄の伝説に憧れて、自分もギリギリの人生を送りたいと思うのだが、結局は、世の末まで恥ずべき汚点を残す。このように進路を誤るのは、若気の至りである。

 一方、老人は、やる気がなく、気持ちも淡泊で細かいことを気にせず、いちいち動揺しない。心が平坦だから、意味の無い事もしない。健康に気を遣い、病院が大好きで、面倒な事に関わらないように注意している。年寄りの知恵が若造に秀でているのは、若造の見てくれが老人よりマシなのと同じである。

原文

 若き時は、血気(けつき(うちに余り、心、物に動きて、情欲多し。身を(あやぶめて、(くだ(やすき事、(たまを走らしむるに似たり。美麗(びれいを好みて宝を(つひやし、これを捨てて(こけ(たもと(やつれ、勇める心盛りにして、物と争ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず、色に耽り、情にめで、行ひを潔くして、百年(ももとせの身を誤り、命を失へる例願はしくして、身の(またく、久しからん事をば思はず、(ける(かたに心ひきて、永き世語りともなる。身を(あやまつ事は、若き時のしわざなり。

 老いぬる人は、精神(せいしん(おとろへ、(あは(おろそかにして、感じ動く所なし。心(おのづから静かなれば、無益(むやくのわざを為さず、身を助けて(うれへなく、人の(わづらひなからん事を思ふ。老いて、智の、若きにまされる事、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如し。

徒然草 第百六十七段

現代語訳

 ある専門家が、違う分野の宴会に参加すると、「もし、これが自分の専門だったら、こうやって大人しくしていることも無かっただろう」と悔しがり、勘違いすることがよくある。何ともせこい心構えだ。知らないことが羨ましかったら、「羨ましい。勉強しておけば良かった」と、素直に言えばいい。自分の知恵を使って誰かと競うのは、角を持つ獣が角を突き出し、牙のある獣が牙をむき出すのと一緒である。

 人間は、自分の能力を自慢せず、競わないのを美徳とする。人より優れた能力は、欠点なのだ。家柄が良く、知能指数が高く、血筋が良く、「自分は選ばれた人間だ」と思っている人は、たとえ言葉にしなくても嫌なオーラを無意識に発散させている。改心して、この奢りを忘れるがよい。端から見ると馬鹿にも見え、世間から陰口を叩かれ、ピンチを招くのが、この図々しい気持ちなのである。

 真のプロフェッショナルは、自分の欠点を正確に知っているから、いつも向上心が満たされず、背中を丸めているのだ。

原文

 一道(いちだう(たづさはる人、あらぬ道の(むしろ(のぞみて、「あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見(はべらじものを」と言ひ、心にも思へる事、(つねのことなれど、よに(わろ(おぼゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし。などか習はざりけん」と言ひてありなん。我が智を取り出でて人に争ふは、(つのある物の、角を傾け、(きばある物の、牙を((だす(たぐひなり。

 人としては、善に伐らず、物と(あらそはざるを徳とす。他に(まさることのあるは、大きなる(しつなり。(しなの高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の(ほまれにても、人に(まされりと思へる人は、たとひ言葉に(でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎あり。慎みて、これを忘るべし。痴にも見え、人にも言ひ(たれ、(わさはひをも招くは、たゞ、この慢心(まんしんなり。

 一道にもまことに(ちやうじぬる人は、自ら、明らかにその非を知る(ゆゑに、志常に(たずして、(つひに、物に(ほこる事なし。

注釈

 一道(いちだう(たづさはる人

  一つの専門を追及する人。芸術、学問、文芸などを言う。

徒然草 第百五十五段

現代語訳

 一番の処世術はタイミングを掴むことである。順序を誤れば、反対され、誤解を与え、失敗に終わる。そのタイミングを知っておくべきだ。ただし、病気や出産、死になると、タイミングなど無く、都合が悪くても逃れられない。人は、この世に産み落とされ、死ぬまで変化して生き移ろう。人生の一大事は、運命の大河が氾濫し、流れて止まないのと同じなのだ。少しも留まることなく未来へと真っ直ぐ流れる。だから、俗世間の事でも成し遂げると決めたなら、順序を待っている場合ではない。つまらない心配に、決断を中止してはならない。

 春が終わって夏になり、夏が終わって秋になるのではない。春は早くから夏の空気を作り出し、夏には秋の空気が混ざっている。秋にはだんだん寒くなり、冬の十月には小春の天気があって、草が青み、梅の花も蕾む。枯葉が落ちてから芽が息吹くのでもない。地面から芽生える力に押し出され、耐えられず枝が落ちるのである。新しい命が地中で膨らむから、いっせいに枝葉が落ちるのだ。人が年老い、病気になり、死んでいく移ろいは、この自然のスピードよりも速い。季節の移ろいには順序がある。しかし、死の瞬間は順序を待ってくれない。死は未来から向かって来るだけでなく、過去からも追いかけてくるのだ。人は誰でも自分が死ぬ事を知っている。その割には、それほど切迫していないようだ。しかし、忘れた頃にやってくるのが死の瞬間。遙か遠くまで続く浅瀬が、潮で満ちてしまい、消えて磯になるのと似ている。

原文

 世に(したがはん人は、先づ、機嫌(きげんを知るべし。(ついで(しき事は、人の耳にも(さかひ、心にも違ひて、その事(らず。さやうの折節(をりふしを心(べきなり。(ただし、(やまひを受け、子(み、死ぬる事のみ、機嫌(きげんをはからず、(ついで(しとて(む事なし。(しやう(ぢゆう((めつの移り変る、(まことの大事は、(たけき河の(みなぎり流るゝが如し。(しばしも(とどこほらず、(ただちに(おこなひゆくものなり。されば、真俗(しんぞくにつけて、必ず(はた(げんと思はん事は、機嫌(きげんを言ふべからず。とかくのもよひなく、足を((とどむまじきなり。

 春暮れて(のち、夏になり、夏(てて、秋の(るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春(こはるの天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて(ぐむにはあらず、(したより(きざしつはるに(へずして落つるなり。(むかふる気、下に(まうけたる(ゆゑに、待ちとる(ついで(はなはだ速し。(しよう・老・病・死の移り(きたる事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期(しご(ついでを待たず。死は、前よりしも(きたらず。かねて(うしろ(せまれり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、(おぼえずして(きたる。(おき干潟(ひかた(はるかなれども、(いそより(しほ(つるが如し。

徒然草 第百五十一段

現代語訳

 ある人が言っていた。「五十歳になっても熟練しなかった芸など捨ててしまえ」と。その年になれば、頑張って練習する未来もない。老人のすることなので、誰も笑えない。大衆に交わっているのも、デリカシーが無くみっともない。ヨボヨボになったら、何もかも終了して、放心状態で空を見つめているに限る。見た目にも老人ぽくて理想的だ。世俗にまみれて一生を終わるのは、三流の人間がやることである。どうしても知りたい欲求に駆られたら、人に師事し、質問し、だいだいの概要を理解して、疑問点がわかった程度でやめておくのが丁度よい。本当は、はじめから何も知ろうとしないのが一番だ。

原文

 (ある人の云はく、年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。(はげみ習ふべき行末(ゆくすゑもなし。老人の事をば、人もえ(わらはず。衆に(まじりたるも、あいなく、見ぐるし。大方、万のしわざは(めて、(いとまあるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に(たづさはりて生涯を暮すは、下愚(かぐの人なり。ゆかしく(おぼえん事は、学び訊くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずして(むべし。もとより、望むことなくして(まんは、第一の事なり。

徒然草 第百五十段

現代語訳

 これから芸を身につけようとする人が、「下手くそなうちは、人に見られたら恥だ。人知れず猛特訓して上達してから芸を披露するのが格好良い」などと、よく勘違いしがちだ。こんな事を言う人が芸を身につけた例しは何一つとしてない。

 まだ芸がヘッポコなうちからベテランに交ざって、バカにされたり笑い者になっても苦にすることなく、平常心で頑張っていれば才能や素質などいらない。芸の道を踏み外すことも無く、我流にもならず、時を経て、上手いのか知らないが要領だけよく、訓練をナメている者を超えて達人になるだろう。人間性も向上し、努力が報われ、無双のマイスターの称号が与えられるまでに至るわけだ。

 人間国宝も、最初は下手クソだとなじられ、ボロクソなまでに屈辱を味わった。しかし、その人が芸の教えを正しく学び、尊重し、自分勝手にならなかったからこそ、重要無形文化財として称えられ、万人の師匠となった。どんな世界も同じである。

原文

 (のうをつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に(られじ。うちうちよく習ひ(て、さし(でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も(なら(ることなし。

 (いま堅固(けんごかたほなるより、上手の(なか(まじりて、(そしり笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて(たしなむ人、天性(てんせい、そ(こつなけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能(かんのう(たしなまざるよりは、(つひに上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、(ならびなき名を(る事なり。

 天下(てんがのものの上手といへども、始めは、不堪(ふかんの聞えもあり、無下の瑕瑾(かきんもありき。されども、その人、道の(おきて(ただしく、これを重くして、放埒(はうらつせざれば、世の博士(はかせにて、万人(ばんにんの師となる事、諸道(かはるべからず。

注釈

 不堪(ふかんの聞え

  下手くそだという悪い噂。

 無下の瑕瑾(かきん

  ひどすぎる屈辱。