おりにかなう助け

徒然草 第六十一段

現代語訳

 天皇の正妻や二号、愛人が出産する際に、炊飯器を転げ落とす儀式は必須ではない。後産が長引かないようにする、単なるまじないなのだ。安産であれば必要ない。

 元は庶民の風習であり、何の根拠もない。大原の里から炊飯器を取り寄せるのだが、これは「大原」と「大腹」の駄洒落である。宝物殿に安置してある古いタブローに、貧乏人の出産時に、炊飯器を転がしている様子が残っている。

原文

 御産(ごさんの時、(こしき落す事は、(さだまれる事にあらず。御胞衣(えなとゞこほる時のまじなひなり。とゞこほらせ給はねば、この事なし。

 下ざまより事起りて、させる本説(ほんせちなし。大原(おほはらの里の(こしきを召すなり。古き宝蔵(ほうぞうの絵に、(いやしき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。

注釈

 御産(ごさん

  宮中の高貴な方が、皇太子、皇女を出産すること。

 (こしき

  瓦製の米を炊く道具。

 胞衣(えな

  胎児を包んでいる膜や胎盤。出産後に下りてくることから後産とも呼ぶ。

 大原(おほはら

  京都市左京区大原。「大原」と「大腹」をかけている。

 宝蔵(ほうぞう

  宝物をしまう蔵。

徒然草 第六十段

現代語訳

 真乗院に盛親僧都という天才がいた。里芋が大好きで大量に食べていた。説法集会の時でも大鉢に山の如く積み上げて、膝の近くに置いて食べながら本を読んでいた。疾病すれば、一二週間入院して思い通りの良い芋を選別し、普段よりも大量に食べ、どんな大病も完治させた。また、誰にも芋をやらず、いつも独り占めした。貧乏を窮めていたが、師匠が死んで寺と二百貫の財産を相続した。その後、百貫で寺を売り飛ばし、三百貫もの大金を手にした。その金を芋代と決めて、京都銀行に貯金した。十貫ずつ金を引き出しては、芋を買い、満足するまで食べ続けた。他に散財する物もなく全て芋代に化けた。「三百貫の大金を、全て芋に使うとは類い希なる仏教人だ」と人々に称えられ、殿堂入りした。

 この僧都は、ある坊さんを見て「しろうるり」とあだ名を付けた。誰かに「しろうるりとは、どんな物ですか?」と問われると「私も何だか知りません。もし、そんな物があったなら、きっとこの坊さんの顔にそっくりな物でしょう」と答えたそうだ。

 この僧都は、男前で、絶倫で、大食漢で、達筆でもあり、学才が半端でなく、演説させれば最高だった。仁和寺系列ではナンバーワンの僧侶だったが、世間を小馬鹿にしている節があり、いわゆる曲者であった。勝手気ままに生き、ルールなども守らない。もてなしの宴でも、自分の前にお膳が来ると、たとえ配膳中であってもすぐに平らげ、帰りたくなれば一人だけ立ち上がり退室した。寺の食事も、他の僧のように規則正しく食べたりせず、腹が減ったら、夜中、明け方、構わず食べた。欠伸をすれば、昼でも部屋に施錠して寝てしまう。どんなに大切な用事があっても、人の言いなりになって目覚めることはなかった。寝過ぎて目が冴えると、夜中でも夢遊状態のまま鼻歌交じりで徘徊する。かなりの変態であったが、誰からも嫌われることなく世間から許容されていた。まさに、超人のなせる技である。

原文

 真乗院(しんじようゐんに、盛親僧都(じやうしんそうづとて、やんごとなき智者ありけり。芋頭といふ物を好みて、多く(ひけり。談義(だんぎの座にても、大きなる鉢にうづたかく(りて、膝元(ひざもと(きつゝ、食ひながら、文をも読みけり。(わづらふ事あるには、七日(なぬか二七日(ふたなぬかなど、療治(れうぢとて(こも(て、思ふやうに、よき芋頭(いもがしら(えらびて、ことに多く食ひて、(よろづ(やまひ(いやしけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて(まづしかりけるに、師匠(ししやう、死にさまに、(ぜに二百貫と(ぼうひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万(ひきを芋頭の(あしと定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を(ともしからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その(あし皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく(はかららひける、まことに有り難き道心者(だうしんじやなり」とぞ、人申しける。

 この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。

 この僧都、みめよく、力強く、大食(たいしよくにて、能書(のうじよ学匠(がくしやう辯舌(べんぜつ、人にすぐれて、(しゆう法燈(ほふとうなれば、寺中(じちゆうにも重く思はれたりけれども、世を(かろく思ひたる曲者(くせものにて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕(しゆつしして饗膳(きやうぜんなどにつく時も、皆人の前(ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行けり。(とき非時(ひじも、人に(ひと定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、(ねぶたければ、昼もかけ(こもりて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目(めぬれば、幾夜も(ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常(よのつねならぬさまなれども、人に(いとはれず、(よろづ許されけり。徳の至れりけるにや。

注釈

 真乗院(しんじようゐん

  仁和寺系列の院家(門跡寺院に属する由緒ある寺)の一つ。

 盛親僧都(じやうしんそうづ

  『後宇多院御灌頂記(ごうだいんごかんじょうき』に「権小僧都 盛親」とある。僧都は層の位で、僧正に次ぐ。

 芋頭(いもがしら

  里芋。親芋。

 談義(だんぎ

  教典、仏書を講義する集まり。

 しろうるり

  「しろ」は白のことで、「うるり」は不明。

 饗膳(きやうぜん

  法事が終わって出される食事。

 (とき非時(ひじ

  時間が決まった朝食と午後の食事。

徒然草 第五十九段

現代語訳

 悟りを開くのであれば、気がかりで捨てられない日常の雑多な用事を途中で辞めて、全部そのまま捨てなさい。「あと少しで定年だから」とか「そうだ、あれをまだやっていない」とか「このままじゃ馬鹿にされたままだ。汚名返上して将来に目処を立てよう」とか「果報は寝て待て。慌てるべからず」などと考えているうちに、他の用事も積み重なり、スケジュールがパンパンになる。そんな一生には、悟り決意をする日が来るはずもない。世間の家庭を覗いてみると、少し利口ぶった人は、だいたいこんな感じで日々を暮らし、死んでしまう。

 隣が火事で逃げる人が「ちょっと待ってください」などと言うものか。死にたくなかったら、醜態をさらしてでも、貴重品を捨てて逃げるしかない。命が人の都合を待ってくれるだろうか? 儚い命が閉店する瞬間は、水害、火災より迅速に攻めてくる。逃れられない事だから、臨終に「死にそうな親や、首のすわりの悪い子や、師匠への恩、人から受ける優しさを捨てられそうもない」と言ってみたところで、捨てる羽目になる。

原文

 大事(だいじを思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意(ほい(げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰(さたしおきて」、「しかじかの事、人の(あざけりやあらん。行末(ゆくすゑ難なくしたゝめまうけて」、「年来(としごろもあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の(くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期(いちご(ぐめる。

 近き火などに(ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、(はぢをも顧みず、(たからをも捨てて(のがれ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の(きたる事は、水火の(むるよりも(すみかに、(のがれ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。

注釈

 大事(だいじ

  出家して悟りを開くこと。生きるに当たって一番大切なこと。

 無常

  永遠の事象が無いこと。人に死が訪れること。

徒然草 第五十八段

現代語訳

 「仏の道の修行をしようという心構えがあるのならば、住む場所は関係ないと思う。家族の住む家に住み、他人とつき合っていても、死んだ後の世界のことを願う気持ちに支障があるでしょうか?」と言うのは、極楽往生を理解していない人の意見である。本当に現世をチンケな世界だと思い、絶対に生死を超越してやろうと思うのなら、何が面白くて、朝から晩まで社会の歯車になって、家族計画に気合いを入れるのだろうか。心は周りの雰囲気に移ろうものだから、余計な雑音がない場所でないと修行などできっこない。

 仏道修行への気合いは、到底昔の人に及ばないから、山林に籠もっても、餓えを凌いで嵐を防ぐ何かがなければ生きていくこともできないわけで、一見、俗世にまみれていると、見方によっては見えないこともない。けれども「それでは、世を捨てた意味もない。そんなことなら、どうして世を捨てたのだろうか?」などと言うのは、メチャクチャな話だ。やはり、一度は俗世間を捨てて、仏の道に足を踏み入れ、厭世生活をしているのだから、たとえ欲があると言っても、権力者の強欲さとは比較できないほどせこい。紙で作った布団や、麻で作った衣装、お椀一杯の主食に雑草の吸い物、こんな欲求は世間ではどれぐらいの出費になるだろうか? だから、欲しい物は簡単に手に入り、欲求もすぐに満たされる。また、恥ずかしい身なりをしているので、世間に関わると言っても、修行の妨げになることからは遠ざかり、修行にとってプラスになることにしか近寄ることもない。

 人間として生まれてきたからには、何が何でも世間を捨てて山籠もり生活を営むことが理想である。節操もなく世の中の快楽をむさぼることに忙しく、究極の悟りを思わないとすれば、そこらのブタと何ら変わることがない。

原文

 「道心(だうしんあらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世(のちのよを願はんに(かたかるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死(しやうじ(でんと思はんに、何の(きようありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからん。心は(えんにひかれて移るものなれば、(しづかならでは、道は(ぎやうじ難し。

 その(うつはもの、昔の人に及ばず、山林に(りても、(うゑを助け、(あらしを防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を(むさぼるに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「(そむけるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度(ひとたび、道に(りて世を(いとはん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲(とんよく多きに似るべからず。紙の(ふすま、麻の衣、一(はつのまうけ、(あかざ(あつもの、いくばくか人の(つひえをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに(づる所もあれば、さはいへど、悪には(うとく、善には近づく事のみぞ多き。

 人と生れたらんしるしには、いかにもして世を(のがれんことこそ、あらまほしけれ。(ひとへに(むさぼる事をつとめて、菩提(ぼだいに趣かざらんは、(よろづ畜類(ちくるいに変る所あるまじくや。

注釈

 道心(だうしん

  求道心。仏の道を進み、悟りを開く覚悟。

 後世(のちのよ

  死後に生まれ変わる極楽浄土。

 紙の(ふすま

  紙で作った粗末な夜具。

 (はつ

  僧の食事を入れる粗末な食器。

 菩提(ぼだい

  悟りの世界。

徒然草 第五十三段

現代語訳

 またもや仁和寺の坊さんの話。「小僧が坊主になる別れの名残」などと言って、坊さん達は、それぞれ宴会芸を披露してはしゃいでいた。酔っぱらって、あまりにもウケを追求するあまり、一人の坊さんが、近くにある三本足のカナエを頭にかぶってみた。窮屈なので、鼻をペタンと押して顔を無理矢ねじ込み踊りだした。参加者一同が大変よろこんで、大ウケだった。

 踊り疲れて、足ガナエから頭を取り外そうとしたが、全く抜けない。宴会はそこで白けて、一同「ヤバい」と戸惑った。メチャクチャに引っ張っていると、首のまわりの皮が破れて血みどろになる。ひどく腫れて首のあたりが塞がり苦しそうだ。仕方がないので叩き割ろうとしても、そう簡単に割れないどころか、叩けば叩くほど、音が響いて我慢ができない。もはや、手の施しようが無く、カナエの三本角の上から、スケスケの浴衣を掛けて、手を引き、杖を突かせて、都会の病院に連れて行った。道中、通行人に「何だ? あれは?」と気味悪がられて、良い見せ物だった。病院の中に入って、医者と向き合っている異様な姿を想像すれば、面白すぎて腹がよじれそうになる。何か言ってもカナエの中でこもってしまい、聞き取ることが出来ない。医者は「こう言った症状は、医学関係の教科書にも治療法がなく、過去の症例も聞いたことがありません」と事務的に処理した。匙を投げられて、途方に暮れながら仁和寺に戻った。友達や、ヨボヨボの母親が枕元に集まり悲しんで泣く。しかし、本人は聞いていそうにもなく、ただ放心していた。

 そうこうしていると、ある人が「耳と鼻がぶち切れたとしても、たぶん死なないでしょう。力一杯、引き抜くしかありません」と言った。金属の部分に肌が当たらないよう、藁を差し込んで、首が取れそうなぐらい思いきり引っ張った。耳と鼻が陥没したが、抜けたことには変わらない。かなり危ない命拾いだったが、その後は、ずっと寝込んでいた。

原文

 これも仁和寺(にんわじの法師、(わらはの法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、(ひて興に((あまり、(かたはらなる足鼎(あしがなへを取りて、(かしら(かづきたれば、詰るやうにするを、鼻をおし(ひらめて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に(る事限りなし。

 しばしかなでて後、(かんとするに、大方(おほかた抜かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせんと惑ひけり。とかくすれば、(くび(まはり欠けて、血(り、たゞ(れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、(ひびきて((がたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(みつあしなる(つのの上に帷子(かたびらをうち掛けて、手をひき、(つえをつかせて、京なる医師(くすしのがり、(て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。医師(くすしのもとにさし(りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様(ことやうなりけめ。物を(ふも、くゞもり声に(ひびきて聞えず。「かゝることは、(ふみにも見えず、伝へたる(をしへもなし」と言へば、また、仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみに寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。

 かゝるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ((すとも、命ばかりはなどか生きざらん。たゞ、力を(てて(きに引き給へ」とて、(わらのしべを(まはりにさし入れて、かねを隔てて、(くびもちぎるばかり引きたるに、耳鼻(けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。

注釈

 仁和寺(にんなじ

  京都府左京区御室にある真言宗御室派の大本山。

 足鼎(あしがなへ

  置物の三本足のカナエ。

 帷子(かたびら

  裏地のない衣。

徒然草 第五十二段

現代語訳

 仁和寺に暮らしていたある坊さんは、老体になるまで石清水八幡宮を拝んだことがなかったので、気が引けていた。ある日、思い立って、一人で歩いて参拝することにした。八幡宮の付属品である、極楽寺と高良神社だけ拝んで「これで思いは遂げました」と思いこみ「八幡宮はこれだけか」と、山頂の本殿を拝まずに退散した。

 帰ってから、友達に「前から思っていた事を、ついにやり遂げました。これまた、噂以上にハラショーなものでした。しかし、お参りしている方々が、みんな登山をなさっていたから、山の上でイベントでもあったのでしょうか? 行ってみたかったのですが、今回は参拝が目的だったので、余計な事はやめておこうと、山頂は見てこなかったのです」と語った。

 どんな些細なことでも、案内がほしいという教訓である。

原文

 仁和寺(にんわじにある法師(ほふし、年(るまで石清水(いはしみづ(おがまざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かちより(まうでけり。極楽寺(ごくらくじ高良(かうらなどを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

 さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほいなれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

 少しのことにも、先達(せんだちはあらまほしき事なり。

注釈

 仁和寺(にんなじ

  京都府左京区御室にある真言宗御室派の大本山。

 石清水(いわしみず

  京都府八幡市男山の山頂にある石清水八幡宮。

 極楽寺(ごくらくじ高良(こうら

  石清水八幡宮付属の極楽寺と高良神社。

徒然草 第五十段

現代語訳

 応長というのは、一三一一年の事。三月の頃、伊勢の方から、女が鬼に化けて上京したというニュースがあった。それから二十日ぐらい経つと、日に日に、京都や白川の人が「鬼を見に行く」と言って、野次馬に変身した。「昨日の鬼は、西園寺に出没した」とか「今日の鬼は皇帝のお宅に伺うだろう」とか「今は、あそこに」などと噂だけが一人歩きした。「確かに鬼を見た」と言う人もなく「出任せだ」と言う人もない。高い身分の人も、そうでは無い人も、皆が鬼の話ばかりでキリがない。

 その頃、東山から安居院の近くへ出かけたところ、四条通りから上の方の住民が皆、北を目指して走っていた。「一条室町に鬼がいる」とわめき散らしている。今出川のあたりから見渡してみると、皇帝が祭を見物する板張り席のあたりには、人が通る隙間もなく、賑わい、ごった返していた。「ここまでの騒ぎになるなら、全く根拠のない話でもないだろう」と、人を使わして見に行かせると、一人も鬼と会った人がいない。日暮れまで大騒ぎし、しまいには殴り合いまで勃発して、阿呆らしくもあった。

 この頃、至る所で病気が蔓延し、患者は二三日寝込んだ。「あの鬼の空言は、この伝染病の前触れだった」と言う人もいた。

原文

 応長(おうちやう(ころ伊勢国(いせのくにより、女の鬼に成りたるをゐて(のぼりたりといふ事ありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京・白川(しらかはの人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺(さいをんじに参りたりし」、「今日は院へ参るべし」、「たゞ今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごとと云う人もなし。上下(じやうげ、ただ鬼の事のみ言ひ止まず。

 その比、東山(ひんがしやまより安居院(あぐゐ(へん(まか(はべりしに、四条(しでうよりかみさまの人、皆、北をさして走る。「一条室町(むろまちに鬼あり」とのゝしり合へり。今出川(いまでがはの辺より見やれば、院の御桟敷(おんさじきのあたり、更に通り(べうもあらず、立ちこみたり。はやく、跡なき事にはあらざンめりとて、人を(りて見するに、おほかた、(へる者なし。暮るゝまでかく立ち(さわぎて、(はて闘諍(とうじやうおこりて、あさましきことどもありけり。

 その比、おしなべて、二三日(ふつかみか、人のわづらふ事(はべりしをぞ、かの、鬼の虚言(そらごとは、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし。

注釈

 応長(おうちやう

  延慶(えんきょう四年(一三一一年)三月以降と思われる。この話の結末にある疫病のため、同年四月に応長と改元された。

 白川(しらかは

  京都の東の賀茂川と東山の間の地帯。

 西園寺(さいをんじ

  京の西北の今の金閣寺のある地に藤原公経(きんつねが建設した仏堂。

 東山(ひんがしやま

  京都盆地にある東側の山脈。

 安居院(あぐゐ

  比叡山東塔竹林院の僧侶が上京した際に寄宿する別館。

 四条(しでう

  四条通一帯。

 一条室町(むろまち

  東西の一条通と南北の室町通りの交差点。今の京都御所の最端の地点。

 今出川(いまでがは

  一条通と東洞院の交差する地点から南に流れていた川。

 闘諍(とうじやう

  喧嘩やもめ事。

徒然草 第四十九段

現代語訳

 ヨボヨボになってから、「仏道修行するぞ」と、時が過ぎて行くのを待っていてはならない。古い墓の多くは、夭逝した人の物である。思いがけず疾病して、たちまち「さよなら」を言う羽目になった時、初めて過失に気がついたりする。過失とは言うまでもなく、早く処理しておけばよい事をズルズルと先延ばしにして、どうでもよい事だけは何故だか迅速に対処してきた人生に対して過去を悔しく思うことである。やはり、こぼれたミルクは元に戻らない。

 人は、いつまでもこんな日が続かないと常に心に思い、いつも忘れてはならない。そうすれば、世の中のヘベレケ達に混ざって俗世間にまみれる暇もなく、仏道修行にも身が入るはずだ。

 「今は昔、聖人がいた。客が訪問し自分や他人の雑多な事を話し出すと、こう答えた。『今すぐにやらねばならぬ事がある。人生の締切に追われているから他人の話を聞いている暇などない』。そして、耳栓をして念仏を唱えながら、とうとう楽しく死んでしまうことができた」と、禅林寺の永観が書いた『往生十因』という文献で紹介されている。また、心戒という聖人は、「あまりにもこの世の人生は不安定だ」と思って、じっと座っていることもなく、死ぬまでしゃがんでばかりいた。

原文

 ((りて、始めて道を(ぎようぜんと待つことなかれ。古き(つか、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、(たちまちちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速やかにすべき事を(ゆるくし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。

 人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、(つか(も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。

 「昔ありける(ひじりは、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、「今、火急(くわきふの事ありて、既に朝夕(あしたゆふべ(せまれり」とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林(ぜんりん十因(じふいん(はべり。心戒(しんかいといひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、(しづかについゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。

注釈

 ((りて

  「(あに聞カズヤ。古人云ハク、老ノ来ルヲ待チテ(まさニ道ヲ学スルコト(なかレ。孤墳ハ(ことごとク是レ少年ノ人」と宋の円照宗本の『帰元直指集』にある。

 速やかにすべき事を(ゆるくし

  「百年ノ命、朝露、奢リニ非ズ。須ラク、道ヲ為スニ、急ニスベキ所ヲ緩クシ、緩クスベキ所ヲ急ニスベシ。豈、一生自ラ誤ルニ非ズヤ」と『抄石集』に嘉祥大師の言葉を引いている。

 昔ありける(ひじり

  「伝ヘ聞ク。聖有リ。念仏ヲ業ト為シ、専ラ、寸分ヲ惜シム。若シ、人来リテ、自他ノ要事ヲ謂ヘバ、聖人陳ジテ曰ク、『今、火急(くわきふノ事有リ。既ニ旦暮(たんぼニ逼レリ』ト。耳ヲ塞ギテ念仏シ、(ついニ往生スルヲ得タリト」と、『往生十因』にある。

 十因(じふいん

  『往生十因』。京都市左京区南禅寺寺町にある禅林寺の第七世、永観(ようかんの著。

 心戒(しんかい

  『発心集』(鴨長明著)に「近く、心戒坊とて、居所も定めず、風雲に跡をまかせたる聖あり。俗姓は、花園殿の御末とかや。八嶋の大臣(平宗盛)の子にして、宗親とて、阿波守(あはのかみになされたる人なるべし」とある。平家没落後、思い立って高野山に籠もり、入宋し、下山後、陸奥地方に住み蒸発した。

 (しづかについゐける

  「有云。心戒上人、つねに蹲居し給ふ。或人その故を問ひければ、三界六道には、心安く、尻さしすゑてゐるべき所ばきゆゑ也」と、『一言芳談』にある。「ついゐる」は、膝を付けて座ること。

徒然草 第四十七段

現代語訳

 ある人が清水寺に、お詣りに出かけた。一緒についてきた年寄りの尼さんが道すがら、「くさめ、くさめ」と言い続けてやめない。「婆さんや、何をそんなにのたまわっているのだ」と尋ねても、老いた尼さんは返事もせず、気がふれたままだ。しつこく尋ねられると、老いた尼さんも逆上して、「ええい、うるさい。答えるのも面倒くさい。くしゃみをしたときに、このまじないをしなければ、死んでしまうと言うではないか。あたしが世話した坊ちゃまは賢くて、比叡山で勉強しているんだ。坊ちゃまが、今くしゃみをしたかも知れないと思うと気が気でないから、こうやってまじないをしているのだ」と言った。

 殊勝なまでの心入れをする変人がいたもんだ。

原文

 或人(あるひと清水(きよみづへ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前(あまごぜん、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応へもせず、なほ言ひ(まざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて「やゝ。(はなひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君(やしなひきみの、比叡山(ひえのやま(ちごにておはしますが、たゞ今もや(はなひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。

 ((がたき志なりけんかし。

注釈

 清水(きよみず

  京都市東山区にある、音羽山清水寺。

 くさめ

  くしゃみをしたときに唱える、まじないの呪文。「休息命(くそみょう」を早口で言った言葉。

 養君(やしないきみ

  乳母が養育した貴族のご子息。

 比叡山(ひえのやま

  比叡山延暦寺。

徒然草 第三十九段

現代語訳

 ある人が法然上人に「念仏を唱えているとき、睡魔におそわれ仏道修行をおろそかにしてしまうことがあるのですが、どうしたら、この問題を解決できるでしょうか?」と訪ねたら「目が覚めているときに、念仏を唱えなさい」と答えたそうな。とってもありがたいお言葉である。

 また、「死後に天国に行けると思えば、きっと行けるだろうし、行けないと思えば無理だ」と言ったそうな。これも、とってもありがたいお言葉である。

 それから、「死後に天国に行けるかどうか心配しながらでも、念仏を唱えていれば、成仏できる」と言ったそうな。これまた、とってもありがたいお言葉である。

原文

 或人、法然(ほふねん上人(しやうにんに、「念仏の時、(ねぶにをかされて、(ぎやう(おこた(はべる事、いかゞして、この(さはりを(め侍らん」と申しければ、「目の(めたらんほど、念仏し給へ」と(いらへられたりける、いと(たふとかりけり。

 また、「往生(わうぢやうは、一定(いちぢやうと思へば一定、不定(ふぢやうと思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。

 また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。

注釈

 法然(ほふねん上人(しやうにん

  本名は源空、法然房と名乗った。岡山生まれのお坊さん。浄土宗を開いた。

 往生(わうぢやう

  現世での命が終わり、極楽浄土で永遠の生命を得ること。

 一定(いちぢやう

  確実の意味。

 不定(ふぢやう

  一定の反意語。不確実の意味。