現代語訳
直してもどうにもならないものは、ぶっ壊した方がよい。
原文
改 めて益 なき事は、改めぬをよしとするなり。
直してもどうにもならないものは、ぶっ壊した方がよい。
改 めて益 なき事は、改めぬをよしとするなり。
「山奥には猫又という肉食の怪獣がいて、人を食べるらしい」と、誰かが言えば「この近所でも、猫が猫又に進化して、人を襲ったらしい」と、言う者もいた。油小路にある行願寺の近くに住む何とか
実は、愛犬ポチが暗闇の中、ご主人様の帰りが嬉しくて尻尾を振り振り抱きついたそうだ。
「奥山に、
猫 またといふものありて、人を食 ふなる」と人の言ひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経上 りて、猫またに成りて、人とる事はあンなるものを」と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏 とかや、連歌しける法師の、行願寺 の辺 にありけるが聞きて、独り歩 かん身は心すべきことにこそと思ひける比しも、或所にて夜更 くるまで連歌して、たゞ独り帰りけるに、小川 の端 にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へふと寄り来て、やがてかきつくまゝに、頚 のほどを食はんとす。肝心 も失 せて、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転 び入 りて、「助けよや、猫またよやよや」と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こは如何に」とて、川の中より抱 き起 したれば、連歌の賭物取りて、扇 ・小箱など懐 に持ちたりけるも、水に入 りぬ。希有 にして助かりたるさまにて、這 ふ這ふ家に入 りにけり。
飼ひける犬の、暗 けれど、主 を知 りて、飛び付きたりけるとぞ。
古くから伝え聞いている怪獣。「
浄土宗・時宗において、僧侶の法名に付けた称号。この僧侶は隠遁者であることを示唆している。
行円が建てた寺。油小路の東にあったが、現在は竹屋町に移設された。
人の心は素直でないから、嘘偽りにまみれている。しかし、生まれつき心が素直な人がいないとも言い切れない。心が腐っている人は、他人の長所を嗅ぎつけ、妬みの対象にする。もっと心が腐って発酵している人は、優れた人を見つけると、ここぞとばかりに毒づく。「欲張りだから小さな利益には目もくれず、嘘をついて人から崇め奉られている」と。バカだから優れた人の志も理解できない訳で、こんな悪態をつくのだが、この手のバカは死んでも治らない。人を欺いて小銭を巻き上げるだけで、例え頭を打っても賢くなる事はない。
「狂った人の真似」と言って国道を走れば、そのまま狂人になる。「悪党の真似」と言って人を殺せば、ただの悪党だ。良い馬は、良い馬の真似をして駿馬になる。聖人を真似れば聖人の仲間入りが出来る。冗談でも賢人の道を進めば、もはや賢人と呼んでも過言ではない。
人の心すなほならねば、
偽 りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨 むは、尋常 なり。至 りて愚 かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎 む。「大きなる利 を得 んがために、少しきの利 を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗 る。己 れが心に違 へるによりてこの嘲 りをなすにて知りぬ、この人は、下愚 の性 移るべからず、偽 りて小利をも辞すべからず、仮 りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似 とて大路 を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似 とて人を殺さば、悪人なり。驥 を学ぶは驥の類 ひ、舜 を学ぶは舜の徒 なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
生まれつき最低の人間。「子曰ク。唯、上智ト下愚トハ移ラズ」と『論語』にある。
一日に千里を走る駿馬。「驥ヲ
中国古代の聖帝。「鶏鳴ニシテ起キ、
天皇の正妻や二号、愛人が出産する際に、炊飯器を転げ落とす儀式は必須ではない。後産が長引かないようにする、単なるまじないなのだ。安産であれば必要ない。
元は庶民の風習であり、何の根拠もない。大原の里から炊飯器を取り寄せるのだが、これは「大原」と「大腹」の駄洒落である。宝物殿に安置してある古いタブローに、貧乏人の出産時に、炊飯器を転がしている様子が残っている。
御産 の時、甑 落す事は、定 まれる事にあらず。御胞衣 とゞこほる時のまじなひなり。とゞこほらせ給はねば、この事なし。
下ざまより事起りて、させる本説 なし。大原 の里の甑 を召すなり。古き宝蔵 の絵に、賎 しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。
宮中の高貴な方が、皇太子、皇女を出産すること。
瓦製の米を炊く道具。
胎児を包んでいる膜や胎盤。出産後に下りてくることから後産とも呼ぶ。
京都市左京区大原。「大原」と「大腹」をかけている。
宝物をしまう蔵。
またもや仁和寺の坊さんの話。「小僧が坊主になる別れの名残」などと言って、坊さん達は、それぞれ宴会芸を披露してはしゃいでいた。酔っぱらって、あまりにもウケを追求するあまり、一人の坊さんが、近くにある三本足のカナエを頭にかぶってみた。窮屈なので、鼻をペタンと押して顔を無理矢ねじ込み踊りだした。参加者一同が大変よろこんで、大ウケだった。
踊り疲れて、足ガナエから頭を取り外そうとしたが、全く抜けない。宴会はそこで白けて、一同「ヤバい」と戸惑った。メチャクチャに引っ張っていると、首のまわりの皮が破れて血みどろになる。ひどく腫れて首のあたりが塞がり苦しそうだ。仕方がないので叩き割ろうとしても、そう簡単に割れないどころか、叩けば叩くほど、音が響いて我慢ができない。もはや、手の施しようが無く、カナエの三本角の上から、スケスケの浴衣を掛けて、手を引き、杖を突かせて、都会の病院に連れて行った。道中、通行人に「何だ? あれは?」と気味悪がられて、良い見せ物だった。病院の中に入って、医者と向き合っている異様な姿を想像すれば、面白すぎて腹がよじれそうになる。何か言ってもカナエの中でこもってしまい、聞き取ることが出来ない。医者は「こう言った症状は、医学関係の教科書にも治療法がなく、過去の症例も聞いたことがありません」と事務的に処理した。匙を投げられて、途方に暮れながら仁和寺に戻った。友達や、ヨボヨボの母親が枕元に集まり悲しんで泣く。しかし、本人は聞いていそうにもなく、ただ放心していた。
そうこうしていると、ある人が「耳と鼻がぶち切れたとしても、たぶん死なないでしょう。力一杯、引き抜くしかありません」と言った。金属の部分に肌が当たらないよう、藁を差し込んで、首が取れそうなぐらい思いきり引っ張った。耳と鼻が陥没したが、抜けたことには変わらない。かなり危ない命拾いだったが、その後は、ずっと寝込んでいた。
これも
仁和寺 の法師、童 の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔 ひて興に入 る余 り、傍 なる足鼎 を取りて、頭 に被 きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平 めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入 る事限りなし。
しばしかなでて後、抜 かんとするに、大方 抜かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせんと惑ひけり。とかくすれば、頚 の廻 り欠けて、血垂 り、たゞ腫 れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響 きて堪 へ難 かりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足 なる角 の上に帷子 をうち掛けて、手をひき、杖 をつかせて、京なる医師 のがり、率 て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。医師 のもとにさし入 りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様 なりけめ。物を言 ふも、くゞもり声に響 きて聞えず。「かゝることは、文 にも見えず、伝へたる教 へもなし」と言へば、また、仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上 に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。
かゝるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切 れ失 すとも、命ばかりはなどか生きざらん。たゞ、力を立 てて引 きに引き給へ」とて、藁 のしべを廻 りにさし入れて、かねを隔てて、頚 もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠 けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。
京都府左京区御室にある真言宗御室派の大本山。
置物の三本足のカナエ。
裏地のない衣。