現代語訳
「ギャンブルで負け続け、すっかり仕上がって、全財産をぶち込もうとする相手を挑発してはならない。振り出しに戻って、連勝するチャンスが相手にやってきたと察知すべきだ。この瞬間を感じ取るのが伝説のギャンブラーというものである」と、ある人が言っていた。
原文
「ばくちの、負
極 まりて、残りなく打 ち入 れんとせんにあひては、打つべからず。立 ち返 り、続 けて勝つべき時の至 れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり」と、或 者申しき。
「ギャンブルで負け続け、すっかり仕上がって、全財産をぶち込もうとする相手を挑発してはならない。振り出しに戻って、連勝するチャンスが相手にやってきたと察知すべきだ。この瞬間を感じ取るのが伝説のギャンブラーというものである」と、ある人が言っていた。
「ばくちの、負
極 まりて、残りなく打 ち入 れんとせんにあひては、打つべからず。立 ち返 り、続 けて勝つべき時の至 れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり」と、或 者申しき。
人に先立たれ、中陰最後の法事をした時の話である。ある聖職者を呼ぶと、説法が有り難く、一同、涙を流して感動した。聖職者が帰ると聴衆は、「今日の説法は格別に有り難く、感動しました」と、思うままに話し合った。すると誰かが、「何と言っても、あれ程まで狛犬に似ていらっしゃいましたから」と言うものだから、感動も吹っ飛んでしまい、皆で笑い転げた。こんな坊さんの誉め方があるものか。
別の話に、「人に酒を飲ますと言って、自ら先に飲み、人に無理矢理飲ませる行為は、諸刃の剣で人を斬るのと似たようなものだ。両側に刃が付いているから、振りかぶると自分の頭を切る羽目になり、相手を斬りつける場合ではなくなる。自分が先に酔って倒れたら、相手は酒を飲む気も失せるだろう」と言う人がいた。剣で人を斬る実験でもした事があるのだろうか? 非常に面白い話であった。
人におくれて、四十九日の仏事に、
或 聖 を請 じ侍りしに、説法 いみじくして、皆人涙を流しけり。導師 帰りて後、聴聞 の人ども、「いつよりも、殊に今日は尊 く覚え侍 りつる」と感じ合へりし返事 に、或者の云はく、「何とも候 へ、あれほど唐 の狗 に似候ひなん上は」と言ひたりしに、あはれも醒 めて、をかしかりけり。さる、導師の讃めやうやはあるべき。
また、「人に酒勧 むるとて、己 れ先 づたべて、人に強 ひ奉らんとするは、剣 にて人を斬 らんとするに似たる事なり。二方 に刃つきたるものなれば、もたぐる時、先づ我が頭を斬 る故に、人をばえ斬らぬなり。己れ先づ酔 ひて臥 しなば、人はよも召 さじ」と申しき。剣 にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。
四十九日の仏事
中陰の最後の日の法事。
法事の際、リーダとなり儀式を取り仕切る僧侶。ここでは
是法法師は浄土宗の僧侶の中でも一目置かれる存在でありながら、学者ぶったりせず、一心不乱に念仏を唱えていて、心が平和だった。理想的な姿である。
是法 法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠 を立てず、たゞ、明暮 念仏して、安らかに世を過す有様、いとあらまほし。
『徒然草』が執筆された時代の僧で歌人。
浄土宗
法然上人(第三十九段参照)を宗祖とする宗教。
無駄な時間を過ごすのは、馬鹿者とか勘違い人間と言うに値する。国のため、経営者のためと、やりたくない事をやる羽目になる時は結構ある。その結果として、自分の時間は情けないほど少なくなる。よく考えてみれば、人として生きていくために必要な事と言えば、一つ目は、食べ物、二つ目は、衣服、三つ目に住居ぐらいである。世間で大切と思われている事は、この三つ以外クソと同じだ。餓死せず、凍死せず、雨風しのいで、静かに過ごせるならそれで良いではないか。しかし、人間は誰でも病気になる。病に冒されると苦しくて仕方がない。そこで医療も忘れるわけにはいかない。衣食住に薬を加えて、四つのことがままならないのを貧乏という。四つが何とかなれば裕福という。四つ以外の物欲を満たすのを強欲という。この四つ、爪に火を灯して生きていけば、誰だって「満たされない」などと思うだろうか?
無益 のことをなして時を移すを、愚 かなる人とも、僻事 する人とも言ふべし。国のため、君のために、止 むことを得ずして為すべき事多し。その余りの暇 、幾 ばくならず。思ふべし、人の身に止むことを得 ずして営 む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居 る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。饑 ゑず、寒からず、風雨に侵 されずして、閑 かに過すを楽 しびとす。たゞし、人皆病あり。病に冒 されぬれば、その愁忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢 りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足 らずとせん。
人の能力は、多くの書物を吸収し儒教の教えを熟知するのが第一である。次は書道で、プロを目指すわけでなくとも習っておいた方が良い。いずれ勉強の役に立つ。その次は医療だ。自身の健康管理だけでなく、人命を救い、人に尽くすのは、医療の他にない。その次は、武士の六つの心得にもある射的と乗馬だ。この三つの分野は、何が何でも習得しておく必要がある。学問と武道、そして医療は三つ巴であり、どれ一つとして欠落してはならない。この道を究める人を「意味のないことをする人だ」と馬鹿にする者は、馬鹿でしかない。その次に料理があるが、生命にとって太陽と同じくらい重要である。料理が上手な人は、偉大な才能を授けられたと思って良い。次に日曜大工があるが、いざという時に役立つ。
この他にも様々な能力があるが、何でもこなす超人というのは恥ずべき存在でしかない。素晴らしき詩の世界や、音楽の超絶技巧などを知識人達がシリアスに考えがちだが、今どきアートの力で世界征服をするのは不可能に近い。純金はピカピカと光るだけで、鉄の利用価値に及ばないのと一緒である。
人の才能は、
文 明らかにして、聖 の教を知れるを第一とす。次には、手書く事、むねとする事はなくとも、これを習ふべし。学問に便 りあらんためなり。次に、医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝の務も、医にあらずはあるべからず。次に、弓射 、馬に乗る事、六芸 に出だせり。必ずこれをうかゞふべし。文・武・医の道、まことに、欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふ道、まことに、欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は、人の天なり。よく味 はひを調 へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工 、万 に要 多し。
この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。詩歌 に巧みに、糸竹 に妙 なるは幽玄 の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸くおろかになるに似たり。金 はすぐれたれども、鉄 の益 多きに及かざるが如し。
六芸
士が必須とした六つの技術。礼儀作法、音楽、射的、乗馬、習字、算数。
人の天なり
「
多能は君子の恥づる処なり
「吾、
エサを与えて育てる動物には牛と馬がいる。繋いでおくのは可哀想だけど、いなくては困るので仕方がない。犬は気合いが入っていない用心棒よりも、よっぽど役に立つので絶対に飼っておいた方が良さそうだが、どこの家にもいるので無理をして飼う必要もない。
それ以外の鳥や動物は、全て飼う必要がない。鎖に繋がれて檻に閉じ込められた獣は、駆け出したくて仕方なく、翼を切られてカゴに監禁された鳥は、雲を恋しく想い、飛び回りたく野山のことばかり考えている。鳥や動物の身になれば、辛くて辛抱できないだろう。血の通っている人間が、こんな事を楽しいと思うものか。動物に辛い思いをさせて目の保養にするのは、極悪非道な暴君と同じ心の持ち主である。風流な王子様が鳥を愛した逸話は、梢で遊んでいる鳥を見て、散歩のお供にしただけだ。決して捕まえていたぶっていたのではない。
だいたい「天然記念物の鳥や絶滅寸前の動物は日本に密輸してはいけない」とワシントン条約で決められているではないか。
養ひ飼ふものには、馬・牛。
繋 ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかゞはせん。犬は、守り防くつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。
その外の鳥・獣 、すべて用なきものなり。走る獣は、檻 にこめ、鎖 をさゝれ、飛ぶ鳥は、翅 を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁 へ、止 む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生 を苦しめて目を喜ばしむるは、桀 ・紂 が心なり。王子猷 が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙 の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。
凡そ、「珍らしき禽 、あやしき獣、国に育 はず」とこそ、文 にも侍るなれ。
昔の中国、夏の桀王と殷の紂王の事。二人とも残虐な暴君であった。
晋の書聖と呼ばれた王羲之の子、
珍らしき禽、あやしき獣、国に育はず
「珍禽、奇獣、国ニ
メイドインチャイナの舶来品は、薬の他は全て無くても困らないだろう。中国の本は、この国でも広まっているからコピーすればよい。貿易船が危険な航路を承知の上で、必要のない贅沢品を窮屈そうに満載し、海に揺られて来るとは、ご苦労なこった。
「賢者は遠くの物を宝として欲しがらない」とか「入手困難な物を価値ある物として喜んではならない」などと、古い中国の本にも書いてあるではないか。
唐 の物は、薬の外は、みななくとも事欠くまじ。書 どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。唐土 舟の、たやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭 く渡しもて来る、いと愚かなり。
「遠き物を宝とせず」とも、また、「得難 き貨 を貴 まず」とも、文 にも侍るとかや。
中国風の舟。日本製でもこのように称した。唐舟とも。
遠き物を宝とせず
「遠キ物ヲ宝トセザレバ、則チ、遠キ人
得
「得難キノ貨ヲ貴バザレバ、民ヲシテ
鎌倉の海を泳いでいる鰹という魚は、この地方では高級魚として最近の流行になっている。その鰹も、鎌倉の爺様が言うには「この魚も、おいら達が若い頃には、真っ当な人間の食卓に出ることも無かったべよ。頭はゴミあさりでも切り取って捨てていたっぺ」と話していた。
そんな魚も世紀末になれば、金持ちの食卓に出されるようになった。
鎌倉の海に、
鰹 と言ふ魚は、かの境 ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍 りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出 づる事侍らざりき。頭 は、下部 も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。
かやうの物も、世の末になれば、上 ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。
鎌倉
神奈川県鎌倉市。鎌倉幕府が置かれた都市。
スズキ目・サバ科に属する魚の一種。
鯉こくを食べた日は髪の毛がボサボサにならないという。鯉の骨は接着剤の材料になるからネバネバしているのだろうか。
鯉だけは天皇の目の前で調理しても問題ない大変ありがたい魚である。鳥で言えばキジが一番リッチだ。キジやマツタケは皇居の台所にそのままぶら下がっていても見苦しくはない。その他の食材は、汚らわしく見える。ある日、中宮の台所の棚にカリが乗っているのを、お父様の北山入道が見て、帰宅早々、手紙を書いた。「カリのような下手物が、そのままの姿で棚に乗っているのを見たことがない。世間体が悪いことである。一般常識を知っている者が近くにいないからこうなる」と意見した。
鯉 の羹 食ひたる日は、鬢 そゝけずとなん。膠 にも作るものなれば、粘 りたるものにこそ。
鯉ばかりこそ、御前 にても切らるゝものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉 、さうなきものなり。雉・松茸 などは、御湯殿 の上に懸りたるも苦しからず。その外は、心うき事なり。中宮 の御方の御湯殿の上の黒御棚 に雁 の見えつるを、北山 入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて、御文 にて、「かやうのもの、さながら、その姿にて御棚にゐて候ひし事、見慣はず、さまあしき事なり。はかばかしき人のさふらはぬ故 にこそ」など申されたりけり。
鯉で作った吸い物。(鯉こくは味噌で煮たもの)
穀物などを練って作った糊。
天皇が入浴する「御湯殿」の先にある食料庫及び台所。
後醍醐天皇の中宮、禧子。後京極院。
中宮の父、
友達にするにふさわしくない者は、七種類ある。一つ目は、身分が高く住む世界が違う人。二つ目は、青二才。三つ目は、病気をせず丈夫な人。四つ目は、飲んだくれ。五つ目は、血の気が多く戦闘的な人。六つ目は、嘘つき。七つ目は、欲張り。
良い友達には、三種類ある。まずは、物をくれる友達。次は、ドクター。最後に、賢い友達。
友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身
強 き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵 。六つには、虚言 する人。七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師 。三つには、智恵ある人。