徒然草

徒然草 第二百三十四段

現代語訳

 何かを尋ねる人に、「まさか知らないわけがない、真に受けて本当のことを言うのも馬鹿馬鹿しい」と思うからだろうか、相手を惑わす答え方をするのは悪いことだ。相手は、知っていることでも、もっと知りたいと思って尋ねているのかも知れない。また、本当に知らない人がいないとは断言できない。だから、屁理屈をこねずに正確に答えれば、信頼を得られるであろう。

 まだ誰も知らない事件を自分だけ聞きつけて、「あの人は、あきれた人だ」などと省略して言うのも良くない。相手は何の事だかさっぱり分からないから、「何の事ですか?」と、聞き返す羽目になる。有名な話だとしても、偶然に聞き漏らすこともあるのだから、正確に物事を伝えて何が悪いのか。

 このような言葉足らずは、頭も足りない人がすることだ。

原文

 人の、物を問ひたるに、(らずしもあらじ、ありのまゝに言はんはをこがましとにや、心(まどはすやうに返事(かへりごとしたる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うらゝかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。

 人は(いまだ聞き及ばぬ事を、我が知りたるまゝに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言ひ遣りたれば、「如何(いかなる事のあるにか」と、押し返し問ひに(るこそ、心づきなけれ。世に(りぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに(げ遣りたらん、(しかるべきことかは。

 かやうの事は、物馴(ものなれぬ人のある事なり。

徒然草 第二百三十三段

現代語訳

 何事でも失敗を避けるためには、いつでも誠実の二文字を忘れずに、人を差別せず、礼儀正しく、口数は控え目でいるに越したことはない。男でも女でも、老人でも青二才でも同じ事である。ことさら美男子で言葉遣いが綺麗なら、忘れがたい魅力になろう。

 様々な過失は、熟練した気で得意になったり、出世した気で調子に乗って人をおちょくるから犯すのだ。

原文

 (よろづ(とがあらじと思はば、何事にもまことありて、人を(かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女(なんによ・老少、皆、さる人こそよけれども、(ことに、若く、かたちよき人の、(ことうるはしきは、忘れ難く、思ひつかるゝものなり。

 (よろづ(とがは、(れたるさまに上手(じやうずめき、所得(ところえたる気色(けしきして、人をないがしろにするにあり。

徒然草 第二百三十二段

現代語訳

 人間は何事も知らず、出来ず、馬鹿のふりをしたほうが良い。ある賢そうな子供がいた。父親がいる前で人と話すので中国の史書から話題を引いていた。利口には見えたが、目上の人の前だといっても、そこまで背伸びすることもなかろうと思われた。また、ある人の家で琵琶法師の物語を聞こうと琵琶を取り寄せたら柱が一つ取れていた。「柱を作って付けなさい」と言うと、会場にいた人格者にも見えなくはない男が、「使わない柄杓の柄はないか」と立ち上がった。爪を伸ばしているから、この男も琵琶を弾くのだろう。だが、盲目の法師が弾く琵琶に、そこまで気を遣うこともない。琵琶を心得たつもりでいるのだろうと思えば、片腹痛くなった。「柄杓の柄は、わっぱ細工だから琵琶の柱になどにできる物ではない」という説もある。

 若者は、わずかなことで、よく見え、悪くも見える。

原文

 すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。或人(あるひとの子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の(もんを引きたりし、(さかしくは聞えしかども、尊者(そんじやの前にてはさらずともと(おぼえしなり。また、或人(あるひとの許にて、琵琶法師(びはほふし物語(ものがたりを聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、(ぢうの一つ落ちたりしかば、「作りて附けよ」と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓(ひさく(ありや」など言ふを見れば、(つめ(ふしたり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(めくらの琵琶、その沙汰(さたにも及ばぬことなり。道に心得たる(よしにやと、かたはらいたかりき。「柄杓(ひさく(は、檜物木(ひものぎとかやいひて、よからぬ物に」とぞ或人(あるひと(おほせられし。

 若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

注釈

 琵琶法師(びはほふし

  『平家物語』を琵琶の伴奏で聞かせる盲目の僧侶。

徒然草 第二百三十一段

現代語訳

 園の別当入道は、二人といない料理人である。ある人の家で見事な鯉が出てきたので、誰もが皆、別当入道の包丁さばきを見たいと思ったが、軽々しくお願いするのもどうかと逡巡していた。別当入道は察しの良い人物なので、「この頃、百日連続で鯉をさばいて料理の腕を磨いております。今日だけ休むわけにもいきません。是非、その鯉を調理しましょう」と言ってさばいたそうだ。場の雰囲気に馴染み、当意即妙だと、ある人が北山太政入道に言った。北山太政入道は、「こんな事は、厭味にしか聞こえない。『さばく人がいないなら下さい。切ります』とだけ言えばいいのだ。どうして百日の鯉などと、わけの分からないことを言うのだろうか」と、おっしゃったので、納得したという話に、私も納得した。

 わざとらしい小細工で人を喜ばせるよりも、何もしない方がよいのだ。口実を作って接待をするのも良いが、突然にご馳走する方が、ずっと良い。プレゼントも、記念日などではなく、ただ「これをあげよう」と言って差し出すのが、本物の好意なのだ。もったいぶって、相手を焦らしたり、ギャンブルの景品にするのは興ざめである。

原文

 (その別当(べつたう入道は、さうなき庖丁者(はうちやうじやなり。(ある人の(もとにて、いみじき(こひ(だしたりければ、皆人(みなひと、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち(でんもいかゞとためらひけるを、別当入道、さる人にて、「この程、百日(ひやくにちの鯉を切り(はべるを、今日((はべるべきにあらず。枉げて申し(けん」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿(きたやまのだいじやうにふだうどのに語り申されたりければ、「かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、(べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。何条(なんでふ、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。

 大方(おほかた振舞(ふるまひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人(まれびと饗応(きやうおうなども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、たゞ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを(たてまつらん」と云ひたる、まことの志なり。(しむ(よしして(はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

注釈

 (その別当(べつたう入道

  五条大宮内裏。一二七〇年に焼失。

 北山太政入道殿

  百十八段に登場。後京極院の父、西園寺実兼(さいおんじさだかね

徒然草 第二百三十段

現代語訳

 五条の皇居には妖怪が巣くっていた。二条為世が話すには、皇居に上がることを許された男たちが黒戸の間で碁に耽っていると、簾を上げて覗き込む者がある。「誰だ」と眼光鋭く振り向けば、狐が人間を真似て、立て膝で覗いていた。「あれは狐だ」と騒がれて、あわてて逃げ去ったそうだ。

 未熟な狐が化け損なったのだろう。

原文

 五条内裏(ごでうのだいりには、妖物(ばけものありけり。藤大納言殿語(とうのだいなごんどの語られ(はべりしは、殿上人(てんじやうびとども、黒戸(くろどにて(を打ちけるに、御簾(みす(かかげて見るものあり。「(そ」と見(きたれば、(きつね、人のやうについゐて、さし(のぞきたるを、「あれ狐よ」とどよまれて、(まどひ逃げにけり。

 未練(みれんの狐、化け損じけるにこそ。

注釈

 五条内裏(ごでうのだいり

  五条大宮内裏。一二七〇年に焼失。

 藤大納言殿語(とうのだいなごんどの

  二条為世(にでふのためよ。権大納言。宮廷歌人。兼好法師の和歌の師である。歌論書に『和歌庭訓』がある。

 黒戸(くろど

  清涼殿の北廂から弘徽殿までの西向きの戸。ここを黒戸の御所と呼ぶ。

徒然草 第二百二十九段

現代語訳

 名匠は少々切れ味の悪い小刀を使うという。妙観が観音を彫った小刀は切れ味が鈍い。

原文

 よき細工(さいくは、少し(にぶき刀を使ふと言ふ。妙観(めいくわんが刀はいたく立たず。

注釈

 妙観(めいくわん

  大阪府箕面市にある勝尾寺の観音像と四天王像を彫刻した僧。

徒然草 第二百二十八段

現代語訳

 千本釈迦堂で「南無釈迦牟尼仏」と念仏を唱える仏事は、亀山天皇の時代に如輪上人が始めたのだ。

原文

 千本(せんぼん釈迦(しやか念仏は、文永(ぶんえい(ころ如輪上人(によりんしやうにん、これを始められけり。

注釈

 千本(せんぼん

  京都市上京区千本にある瑞応山大報恩寺。通称千本釈迦堂。

 釈迦(しやか念仏

  「南無釈迦牟尼仏」と、釈尊の名号を唱えて菩提を祈願する念仏。二月九日から十五日まで行われた。遺教経会ともいう。

 文永(ぶんえい

  亀山天皇の時代。一二六四年から一二七五年まで。

 如輪上人(によりんしやうにん

  澄空。藤原師家の子。大報恩寺二世。

徒然草 第二百二十七段

現代語訳

 六時の礼賛は、法然の弟子の安楽という僧が経文を集めて作り、日々の修行にしていたのが起源である。のちに、太秦の善観房という僧がアクシデンタルを追加して楽譜にした。これが一発で昇天できるという「一念の念仏」の始まりである。後嵯峨天皇の時代のことだ。「法事讃」を楽譜にしたのも善観房である。

原文

 六時礼讃(ろくじらいさんは、法然上人(ほふねんしやうにんの弟子、安楽(あんらくといひける僧、経文(きやうもんを集めて作りて、(つとめにしけり。その後、太秦(うづまさ善観房(ぜんくわんぼうといふ僧、節博士(ふしはかせを定めて、声明(しやうみやうになせり。一念の念仏の最初なり。後嵯峨院(ごさがのゐんの御代より始まれり。法事讃(ほふじさんも、同じく、善観房始めたるなり。

注釈

 六時礼讃(ろくじらいさん

  浄土宗の法要のひとつ。一日を六つに分けて浄土往生の念仏を唱える。

 法然上人(ほふねんしやうにん

  第三十九段に登場。本名は源空、法然房と名乗った。岡山生まれのお坊さん。浄土宗を開いた。

 安楽(あんらく

  法然の弟子。法名は遵西。後鳥羽上皇の留守中に御所の女房を出家させ、上皇の逆鱗に触れ、六条河原で処刑され羅切、及び斬首される。

 太秦(うづまさ善観房(ぜんくわんぼう

  京都市右京区太秦にある広隆寺の僧か。

 節博士(ふしはかせ

  詞章の隣に調子の高低、長短を記した符号。ネウマ符。

 後嵯峨院(ごさがのゐんの御代

  後嵯峨天皇の在位期間。一二四二年から一二四六年まで。

 法事讃(ほふじさん

  『転経行道願往生浄土法事讃』の略で、浄土転経行道の善行が記された書。

徒然草 第二百二十六段

現代語訳

 後鳥羽院の時代のことである。地方官の行長は古典の研究に優れ、評判が高かった。しかし、漢詩の勉強会で、白楽天の新楽府を論じた際に「七徳の舞」のうち、二つを忘れてしまい、天皇の前で恥をかいだけでなく「五徳のお兄さん」という不名誉なあだ名まで額に烙印されてしまった。羞恥心に悶絶した行長は、勉強を辞めて、人生も捨ててみることにした。慈円僧正という人は、一つの芸に秀でた者ならば奴隷でも可愛がったので、この行長の面倒をみた。

 『平家物語』の作者は、この行長なのだ。性仏という盲目の坊主に教えて、語り部にさせた。比叡山での事を特に緻密に書き、義経にも詳しい。範頼の事は詳しく知らなかったのか、適当に書いている。武士や武芸については関東者の性仏が仲間に聞いて行長に教えた。今の琵琶法師は、この郢曲で名高い性仏の地声を真似しているのだ。

原文

 後鳥羽院(ごとばのゐんの御時、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが稽古(けいこ(ほまれありけるが、楽府(がふ御論議(みろんぎ(ばん(されて、七徳(しちとくの舞を二つ忘れたりければ、五徳(ごとく冠者(くわんじや異名(いみやうを附きにけるを、心(き事にして、学問を捨てて遁世(とんせいしたりけるを、慈鎮和尚(じちんくわしやう、一芸ある者をば、下部(しもべまでも(し置きて、不便(ふびんにせさせ給ひければ、この信濃(しなのの入道を扶持(ふちし給ひけり。

 この行長入道、平家物語(へいけのものがたりを作りて、生仏(しやうぶつといひける盲目(まうもくに教へて(かたらせけり。さて、山門の事を殊にゆゝしく書けり。九郎判官(くらうはうぐわんの事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのくわんじやの事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬(きゆうば(わざは、生仏(しやうぶつ東国(とうごく(ものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師(びはほふしは学びたるなり。

注釈

 後鳥羽院(ごとばのゐんの御時

  全段の後鳥羽院が統治した時代。一一八三年から一一九八年まで。

 信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが

  信濃の国の前任の地方官。中山行隆の三男で、下野守。「信濃前司」は、兼好法師の誤り。

 慈鎮和尚(じちんくわしやう

  六十七段に登場する「吉水和尚」。前後四度、天台座主で歌人。

 平家物語(へいけのものがたり

  平家滅亡を記した軍記物語。

 生仏(しやうぶつ

  性仏、姉小路資時という説がある。郢曲において天下の名人と呼ばれる。

 山門

  比叡山延暦寺のこと。三井寺は「寺門」と呼ばれる。

 九郎判官(くらうはうぐわん

  源義経。源義朝の九男。

 蒲冠者(かばのくわんじや

  源範頼。源義朝の六男。弟の義経と協力し、木曾義仲、平家を討ち滅した。

 琵琶法師(びはほふし

  『平家物語』を琵琶の伴奏で聞かせる盲目の僧侶。

徒然草 第二百二十五段

現代語訳

 舞踏家の多久資が言っていた。「藤原信西入道が、数ある舞の中から好きな物を選んで、磯の禅師という芸妓に教えて舞わせた。白装束に匕首、黒烏帽子という出で立ちだったので、男舞と呼んだ。その芸妓の娘が静御前である。母の舞を伝承したのだ。これが白拍子の始まりである。当時は、太古の神話を歌っていたが、のちに、源光行が多くの台本を手がけた。後鳥羽院の手なる作品もあり、愛人の亀菊という芸妓に舞わせた」と。

原文

 多久資(おほのひさすけが申しけるは、通憲入道(みちのりのにふだう、舞の手の中に興ある事どもを選びて、(いそ禅師(ぜんじといひける女に教へて舞はせけり。白き水干(すいかんに、鞘巻(さうまきを差させ、烏帽子(えぼしを引き入れたりければ、男舞(をとこまひとぞ言ひける。禅師が娘、(しづかと言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子(しらびやうし根元(こんげんなり。仏神の本縁を歌ふ。その後、源光行(みなもとのみつゆき、多くの事を作れり。後鳥羽院(ごとばのゐん御作(ごさくもあり、亀菊(かめぎくに教へさせ給ひけるとぞ。

注釈

 多久資(おほのひさすけ

  周防守。多家(おおのけは、神楽と舞を家業にして宮廷に仕えた師。

 通憲入道(みちのりのにふだう

  藤原通憲(みちのり。鳥羽・崇徳・近衛・後白河の四代天皇に仕え、少納言になる。出家して、信西と称した。博学多才として知られる。

 (いそ禅師(ぜんじ

  後に登場する「静」の母。静に伴い京都から鎌倉に下向。「禅師」は芸妓の源氏名。

 (しづか

  源義経の妾で、静御前と呼ばれる。

 白拍子(しらびやうし

  遊女が男装して舞う歌舞。

 源光行(みなもとのみつゆき

  鎌倉初期の歌人で学者でもあった。源頼朝のセキュリティ・ポリス。関東地方で活躍し『蒙求和歌』『百詠和歌』などの著書を残す。『源氏物語』の河内本を校閲した。

 後鳥羽院(ごとばのゐん

  第八十二代の天皇。承久の乱に失敗し、隠岐の島に流される。

 亀菊(かめぎく

  後鳥羽院が寵愛した舞姫。この寵愛が承久の乱の原因の一つとなったと伝えられる。隠岐の島に連れ添う。