徒然草

徒然草 第二百二十四段

現代語訳

 占い師の安倍有宗が、鎌倉から上京し訪ねて来た。門に足を踏み入れると、まず一言「この庭は無駄に広い。何の工夫もなく、けしからぬ。少し頭を使えば、何かを栽培できるだろうに。小径を一本残して、あとは畑に作りかえろ」と説教した。

 もっともな話である。少しの土地でも荒れ地にしておくのはもったいない。食べ物や薬でも植えた方がましだ。

原文

 陰陽師(おんようじ有宗入道(ありむねのにふだう、鎌倉より上りて、尋ねまうで(きたりしが、先づさし(りて、「この庭のいたすらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、(うる事を努む。細道一つ残して、皆、(はたけに作り給へ」と諌め侍りき。

 まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、(やくなき事なり。食ふ物・薬種(やくしゆなど植ゑ置くべし。

注釈

 陰陽師(おんようじ

  陰陽寮に属した占筮及び地相などを司った。占い師。

 有宗入道(ありむねのにふだう

  阿倍有宗。陰陽頭。平安中期の有名な占い師で、安倍晴明、十代目の子孫に当たる。

徒然草 第二百二十三段

現代語訳

 九条基家が、鶴の大臣と呼ばれるのは、幼少の頃に「鶴ちゃん」と呼ばれていたからだ。鶴を飼っていたからという話は、でまかせだ。

原文

 (たず大臣殿(おほいどのは、童名(わらはな、たづ君なり。(つるを飼ひ給ひける故にと申すは、僻事(ひがことなり。

注釈

 (たず大臣殿(おほいどの

  九条基家。内大臣。鶴殿(たずどのと号した。歌人で『続古今集』の選者。

徒然草 第二百二十二段

現代語訳

 山科の乗願房が、東二乗院の元へ参上したときのことである。東二乗院が、「死んだ人に何かをしてあげたいのですが、どうすれば喜ばれるでしょうか」と質問された。乗願房は、「こうみょうしんごん、ほうきょういんだらに、と唱えなさい」と答えた。弟子達が、「どうしてあんなことを言ったのですか。なぜ念仏が一番尊いと言わないのですか」と責め立てる。乗願房は、「自分の宗派の事だから、軽々しいことを言えなかったのだ。正しく、なむあみだぶつ、と唱えれば、死者に通じて利益があると書いた文献を読んだことがない。万が一、根拠を問われたら困ると思って、一応、経にも書いてある、この呪文を申したのだ」と答えた。

原文

 竹谷乗願房(たけだにのじようがんぼう東二乗院(とうにでうのゐん(まゐられたりけるに、「亡者(まうじや追善(ついぜんには、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明真言(くわうみやうしんごん宝篋印陀羅尼(ほうけふいんだらに」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念仏に(まさる事(さうらふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「我が(しゆうなれば、さこそ申さまほしかりつれども、正しく、称名(しようみやう追福(ついふく(しゆして巨益(こやくあるべしと(ける経文(きやうもんを見及ばねば、何に(えたるぞと重ねて問はせ給はば、いかゞ申さんと思ひて、本経(ほんぎやうの確かなるにつきて、この真言(しんごん陀羅尼(だらにをば申しつるなり」とぞ申されける。

注釈

 竹谷乗願房(たけだにのじようがんぼう

  「竹谷」は京都市山科。「乗願房」は、権中納言長方の子で、竹谷上人と呼ばれた。法然上人の弟子である。

 東二乗院(とうにでうのゐん

  後深草天皇の皇后、公子。西園寺実氏の娘。

 光明真言(くわうみやうしんごん宝篋印陀羅尼(ほうけふいんだらに

  大日如来の呪文。仏、菩薩の全てを通じる呪文か。

徒然草 第二百二十一段

現代語訳

 「後宇多天皇の時代には、葵祭りの警備をする放免人が持つ槍に、変梃な飾りを付けていた。紺色の布を、着物にして四・五着ぶん使って馬を作り、尾や鬣はランプの芯を使い、蜘蛛の巣を書いた衣装などを付け、短歌の解釈などを言いながら練り歩いた姿をよく見た。面白いことを考えたものだ」と、隠居した役人達が、今でも昔話する。

 近頃では、年々贅沢になり、この飾りも行き過ぎになったようだ。色々と重たい物を、いっぱい槍にぶらさげて、両脇を支えられながら、本人は槍さえ持てずに息を切らせて苦しがっている。とても見るに堪えない。

原文

 「建治(けんぢ弘安(こうあん(ころは、祭の日の放免(はうべん附物(つけものに、異様(ことやうなる(こんの布四五(たんにて馬を作りて、((かみには燈心(とうじみをして、蜘蛛(くも(書きたる水干(すいかんに附けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及び(はべりしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志(だうしどもの、今日も語り侍るなり。

 この比は、附物、年を送りて、過差(くわさ殊の外になりて、万の重き物を多く附けて、左右(さう(そでを人に持たせて、自らは(ほこをだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。

注釈

 建治(けんぢ弘安(こうあん(ころ

  建治は千二百七十五年から七十八年、弘安は千二百七十八年から八十八年。後宇多天皇の時代。

徒然草 第二百二十段

現代語訳

 「何事も、辺鄙な片田舎は下品で見苦しいが、天王寺の舞楽だけは、都に勝るとも劣らない」と言う。天王寺の奏者が、「我が寺の楽器は、正確にチューニングされている。だから響きが美しく、他の舞楽よりも優れているのだ。聖徳太子の時代から伝わる調律の教えを今日まで守ってきたおかげである。六時堂の前に鐘がある。その音色と完全に一致した黄鐘調の音だ。暑さ寒さで鐘の音は変わるから、釈迦入滅の二月十五日から、聖徳太子没日の二月二十日の五日間を音の基準とする。門外不出の伝統である。この一音を基準に、全ての楽器の音色をチューニングするのだ」と、言っていた。

 鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を黄鐘調にするべく何度も鋳造したのだが、結局は失敗に終わり、遠くから取り寄せる羽目になった。亀山殿の浄金剛院の鐘の音も、諸行無常の響きである。

原文

 「何事も、辺土(へんど(いやしく、かたくななれども、天王寺(てんわうじの舞楽のみ都に恥ぢず」と云ふ。天王寺の伶人(れいじんの申し侍りしは、「当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの(のめでたく調り侍る事、(ほかよりもすぐれたり。(ゆゑは、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂(ろくじだうの前の鐘なり。その声、黄鐘調(わうしきでう最中(もなかなり。寒・暑に(したがひて(あがり・(さがりあるべき故に、二月涅槃会(ねはんゑより聖霊会(しようりやうゑまでの中間(ちゆうげん指南(しなんとす。秘蔵(ひさうの事なり。この一調子(いつてうしをもちて、いづれの声をも調へ(はべるなり」と申しき。

 凡そ、鐘の声は黄鐘調(わうしきでうなるべし。これ、無常の調子、祇園精舎(ぎをんしやうじやの無常院の声なり。西園寺(さいをんじの鐘、黄鐘調に(らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国(をんごくより尋ね(だされけり。浄金剛院(じやうこんがうゐんの鐘の声、また黄鐘調なり。

注釈

 天王寺(てんわうじの舞楽

  大阪市天王寺区にある四天王寺。「舞楽」は中国から伝来した古典音楽舞踏。

 伶人(れいじん

  音楽を演奏する人。

 太子

  聖徳太子。

 六時堂(ろくじだう

  昼夜を、六時間にわけて、その時々に勤行をするお堂。

 黄鐘調(わうしきでう

  音の音程や調子で、ここでは鐘の音が同期していることを指す。

 涅槃会(ねはんゑ

  二月十五日の、釈迦入滅の忌日に行う法事。

 聖霊会(しようりやうゑ

  聖徳太子が没した、二月二十日の忌日に行う法事。

 祇園精舎(ぎをんしやうじや

  中インドの舎衛城にあった寺院。釈迦が説法を行った場所。

 無常院

  祇園精舎にあった、病人を安息させるために建てた僧院。

 西園寺(さいをんじ

  京の西北の今の金閣寺のある地に藤原公経(きんつねが建設した仏堂。

 浄金剛院(じやうこんがうゐん

  亀山殿(第五十一段)に、今昔の檀林寺の跡に建てられた御堂。現在の臨川寺の付近と推定される。

徒然草 第二百十九段

現代語訳

 四条大納言が「豊原竜秋という奴は、管楽器の分野においては神様のような存在だ。奴が先日、こんなことを言った。『浅はかで、口にするのも恥ずかしいのですが、横笛の五番の穴は、いささか信用ならないと秘かに思っているのです。何故かと申せば、六番目の穴は、ミカンのミに近い音で、その上の五番目の穴は、変ト調です。その二つの穴の中間に、ファイトのファがあります。その上にある穴はアオイソラのソで、次の穴の中間がシアワセのシ、二番目の中の穴と一番目の六の穴の間は神聖な音です。このように、どの穴も、穴と穴の間に半音階を潜ませているのに、五番目の穴だけは上の穴との間に半音がありません。それでいて、他の穴と同じ間隔で並んでいるのです。ですから、五番目の穴からは、不自然な音が出ます。この穴を吹く時は、必ず口をリードから離して吹かなければならないのです。それが上手くできないと、楽器が言うことを聞いてくれません。この五番目の穴を吹きこなせる人は滅多いないのです』などと。さすがであり、勉強になった。先輩は後輩を畏れよとは、このことであるな」と、おっしゃった。

 後日、大神景茂が「笙の笛は調律済みの物を手にするのだから、適当に吹いていれば音が出る。笛はブレスで音を調整する。どの穴にも吹き方があり、しかも、演奏者は自分の癖を考えて調整するのだ。用心して吹くのは、五番目の穴だけではない。竜秋のように、ただ単に口を離して吹けば済むなどという簡単なことではないのだ。適当に吹けば、どの穴も変梃な音が出るに決まっている。音の調子が、他の楽器と合わないのは、楽器に欠陥があるのではなく、演奏者に問題があるのだ」と、言った。

原文

 四条黄門(しでうのくわうもん命ぜられて云はく、「竜秋(たつあきは、道にとりては、やんごとなき者なり。先日(きたりて云はく、『短慮の至り、極めて荒涼(くわうりやうの事なれども、横笛の五の穴は、聊かいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。その(ゆゑは、(かんの穴は平調(ひやうでう、五の穴は下無調(しもむでうなり。その(あひだに、勝絶調(しようぜつでうを隔てたり。(しやうの穴、双調(さうでう。次に、鳧鐘調(ふしようでうを置きて、(さくの穴、黄鐘調(わうしきでうなり。その次に鸞鏡調(らんけいでうを置きて、(ちゆうの穴、盤渉調(ばんしきでう、中と六とのあはひに、神仙調(しんぜんでうあり。かやうに、間々(ままに皆一律(いちりつをぬすめるに、五の穴のみ、(しよう(あひだに調子を持たずして、しかも、((くばる事等しき故に、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き(る人難し』と申しき。料簡(れうけんの至り、まことに興あり。先達(せんだつ後生(こうせい(おそると云ふこと、この事なり」と侍りき。

 他日に、景茂(かげもちが申し侍りしは、「(しやうは調べおほせて、持ちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴毎に、口伝(くでんの上に性骨(しやうこつを加へて、心を(るゝこと、五の穴のみに限らず。偏に、のくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手(じやうずはいづれをも吹き合はす。呂律(りよりつの、物に適はざるは、人の(とがなり。(うつはもの(しつにあらず」と申しき。

注釈

 四条黄門(しでうのくわうもん

  藤原隆資。権中納言。「黄門」は中納言の唐名。南朝群に属して男山で戦死。死後、左大臣。

 竜秋(たつあき

  豊原竜秋。笙の名門、豊原家の出身。天皇や、隆資の師。

 横笛

  横向きに吹く笛。

 景茂(かげもち

  大神景茂。笛の名手で、筑前守。

 (しやう

  雅楽で使う管楽器。

徒然草 第二百十八段

現代語訳

 狐は化けるだけでなく人に噛み付くものだ。久我大納言の屋敷では、寝ている召使いが足を噛まれた。仁和寺の本道では、夜道を歩く小坊主が、飛びかかる三匹に噛み殺されそうになった。刀を抜いてこれを避け、二匹を刺した。一匹を突き刺して殺したが、二匹に逃げられた。法師は散々噛まれたが、命に別状は無かった。

原文

 (きつねは人に食ひつくものなり。堀川殿(ほりかはどのにて、舎人(とねりが寝たる足を狐に食はる。仁和寺(にんわじにて、夜、本寺(ほんじの前を(とほ下法師(しもほふしに、狐三つ飛びかゝりて(ひつきければ、刀を抜きてこれを(ふせぐ間、狐二(ひきを突く。一つは突き殺しぬ。二つは逃げぬ。法師は、数多所食はれながら、事故(ことゆゑなかりけり。

注釈

 堀川殿(ほりかはどの

  久我通具(くがみちともの子孫が住む家で、場所は不明。堀川は。京の西、一条から九条へ流れる川。

 舎人(とねり

  ここでは、貴族の家来で、牛飼いや、馬の口引きを指す。

 仁和寺(にんわじ

  京都府左京区御室にある真言宗御室派の大本山。

徒然草 第二百十七段

現代語訳

 ある大金持ちが言うには、「人は何を後回しにしても、ひたすら金儲けに徹するしかない。貧乏人は生きていても仕方がないからだ。金持ち以外は人間ではない。富豪になりたいと思ったら、何はさておき、金持ちの心構えを修行しよう。その心構えは、何も難しいことではない。人生は長く、間違っても、「世界は刻々と変化している」なんて、つまらん事を考えるな。これが第一のポイントだ。次に、いつでも欲求を満たすな。生きていれば、自分にも他人にも欲求は果てしない。欲望の(おもむくまま生きれば、百億円あっても、手元には少しも残らない。欲望は無限にあり、貯金は底を尽きる。限度のある貯金で、無限の欲望に振り回されるのは不可能だ。ということで、心に欲望が芽生えだしたら、自分を滅ぼす悪魔が来たのだと注意して、爪に火を灯せ。その次は、お金を奴隷か何かと勘違いしていたら、貧乏を一生辞められないと思え。お金は、主人や神のように恐れ敬うもので、思い通りに使うものではない。その次に、恥をかいてもプライドを捨てろ。そして、正直に生きて約束を守ることだ。この心がけで金を稼ごうと思えば、乾いた物がすぐ燃えて、水が低いところに流れるように、ジャブジャブ金が転がってくる。金が貯まって増え出すと、宴会や女遊びなどはくだらなくなり、住む場所も簡素になる。欲望を追求することなく、心穏やかで、毎日がバラ色だ」と宣わった。

 そもそも、人は欲望を満たすために金を欲しがるのだ。金に執着するのは、あると願いが叶うからだ。欲望を我慢し、金があっても使わないのなら、これは貧乏人と同じである。いったい何が楽しいのだろうか。しかし、この大金持ちの教えは、欲望を捨て去り、貧乏を恐れるなという戒めに置き換えられそうだ。金で「願い」を叶えて満足するよりも、むしろ「願い」がない方が優れている。インキンの人が、水で洗って「気持ちいい」と思うより、もともとそんな病気にかからない方がよいのと一緒である。こうやって考えれば、貧乏人と金持ちは同じ人間で、悟りと迷いも一緒で、強欲(ごうよくは無欲なのと似ている。

原文

 (ある大福長者(だいふくちやうじやの云はく、「人は、万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。(まづしくては、(けるかひなし。(めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからく、先づ、その心遣ひを修行すべし。その心と云ふは、他の事にあらず。人間常住(じやうじゆうの思ひに(ぢゆうして、仮にも無常を(くわんずる事なかれ。これ、第一の用心なり。次に、万事の用を叶ふべからず。人の世にある、自他につけて所願(しよぐわん無量なり。欲に(したがひて志を(げんと思はば、百万の(ぜにありといふとも、(しばらくくも住すべからず。所願は(む時なし。(たから(くる(あり。限りある財をもちて、限りなき願ひに(したがふ事、(べからず。所願心に萌す事あらば、我を滅すべき悪念(きたれりと固く(つつしみ恐れて、小要(せうえうをも為すべからず。次に、銭を(やつこの如くして使ひ(もちゐる物と知らば、永く貧苦を免るべからず。君の如く、神の如く(おそ(たふとみて、(したがへ用ゐる事なかれ。次に、恥に(のぞむといふとも、怒り(うらむる事なかれ。次に、正直にして、約を固くすべし。この義を守りて利を求めん人は、富の(きたる事、火の燥けるに(き、水の下れるに(したがふが如くなるべし。銭積りて尽きざる時は、宴飲(えんいん声色(せいしよく(こととせず、居所(きよしよを飾らず、所願を(じやうぜざれども、心とこしなへに(やすく、楽し」と申しき。

 そもそも、人は、所願を(じやうぜんがために、(たからを求む。(ぜにを財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、(まつたく貧者と同じ。何をか楽しびとせん。この掟は、たゞ、人間の望みを(ちて、貧を(うれふべからずと聞えたり。欲を(じやうじて楽しびとせんよりは、如かじ、(たからなからんには。(よう(を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。こゝに至りては、貧・富(く所なし。究竟(くきやう理即(りそくに等し。大欲は無欲に似たり。

徒然草 第二百十六段

現代語訳

 北条時頼が鶴岡八幡宮へ参拝したついでに、足利義氏のところへ、「これから伺います」と使いを出して立ち寄った。主の義氏が用意した献立は、お銚子一本目に、アワビ、お銚子二本目に、エビ、お銚子三本目に、蕎麦がきだった。この宴席には、主人夫婦の他に、隆弁僧正が出席して座っていた。宴もたけなわになると、時頼は、「毎年頂く、足利地方の染め物が待ち遠しくて仕方ありません」と言うのだった。義氏は「用意してあります」と、百花繚乱に染め上がった三十巻の反物を広げ、その場で女官に、シャツに仕立てさせて、後で送り届けたそうだ。

 それを見ていた人が最近まで生きていて、その話をしてくれた。

原文

 最明寺入道(さいみやうじのにふだう鶴岡(つるがをか社参(しやさん(ついでに、足利左馬入道(あしかがのさまのにふだう(もとへ、先づ使を遣して、立ち(られたりけるに、あるじまうけられたりける(やう一献(いつこんに打ち(あはび、二献に海老、三献にかいもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正(りゆうべんそうじやう、主(がたの人にて座せられけり。さて、「年毎に給はる足利(あしかがの染物、心もとなく(さうらふ」と申されければ、「用意し(さうらふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房(にようぼうどもに小袖(こそで調(てうぜさせて、後に(つかはされけり。

 その時見たる人の、近くまで(はべりしが、語り侍りしなり。

注釈

 最明寺入道(さいみやうじのにふだう

  北条時頼。鎌倉幕府五代目の執権である。三十歳で執権を辞し、出家。道崇と称す。第百八十四段参照。

 鶴岡(つるがをか

  鶴岡八幡宮。鎌倉市にある。

 足利左馬入道(あしかがのさまのにふだう

  足利義氏。足利家三代目当主。

 隆辨僧正(りゆうべんそうじやう

  四条大納言隆房卿の子。権僧正。鶴岡別当僧正と呼ばれる。

徒然草 第二百十五段

現代語訳

 宣時の朝臣が、老後に、問わず語りをしたことがあった。「ある晩、北条時頼様から、お誘いがありました。『すぐ伺います』と答えたものの、上着が見つからずあたふたしていると、また使いの者が来て、『上着でも探しているのか。もう夜なのでパジャマで構わない。すぐに参られよ』と、言います。仕方なくヨレヨレの背広を着てノーネクタイのまま伺いました。時頼様が、お銚子とお猪口を持って現れて、「この酒を一人で飲むのは淋しいから呼び出したのだよ。酒の肴も無いのだが……。皆、寝静まってしまっただろう。何かつまむ物でもないか探してきてくれ」とおっしゃいます。懐中電灯を持って、隅々まで探してみるとキッチンの棚に味噌が少し付いた小皿を見つけました。『こんな物がありました』と言うと、時頼様は『これで充分』と、ご機嫌で、何杯も飲んで酔っぱらいました。こんな時代もあったのですよ」と語ってくれた。

原文

 平宣時朝臣(たひらののぶときあそん(おい(のち昔語(むかしがたりに、「最明寺入道(さいみやうじのにふだう(ある(よひ((ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂(ひたたれのなくてとかくせしほどに、また、使(きたりて、『直垂などの(さうらはぬにや。夜なれば、異様(ことやうなりとも、(く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのまゝにて罷りたりしに、銚子(てうし土器(かはらけ取り添へて持て(でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。(さかなこそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭(しそくさして、隈々を求めし程に、台所の(たなに、小土器(こがはらけ味噌(みその少し附きたるを見(でて、『これぞ求め(て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献(すこんに及びて、興に(られ(はべりき。その世には、かくこそ(はべりしか」と申されき。

注釈

 平宣時朝臣(たひらののぶときあそん

  大仏宣時(おさらぎのぶとき。北条時政の子孫。鎌倉幕府の重職。

 最明寺入道(さいみやうじのにふだう

  北条時頼。第百八十四段に登場。鎌倉幕府五代目の執権である。三十歳で執権を辞し、出家。道崇と称す。